
「私、農業すんねん。」スペインから帰った来た姉はそう言い放ち、誰もが「うそつけ」と思って1年が経ちました。「うそつけ」と思っていても、家族は皆見守っていましたし、時には「あいつ〜!ほんまにやる気あんのんか〜!」と腹を立てたりしながらも、やはり色々みんな助けたり、手出ししまくったりして、ついに姉は、稲を植えた。
稲を植えてるこの機械も、姉は貯金をはたいてほとんど揃えた。農機具を大金出して契約している時、「まじか。」とみんないよいよ思った。「まじや、あいつ。」と。周りからの資金援助は無い。資金援助したらやる気を無くすんやないかと思ったからだが、姉はしゃあしゃあとこうぬかした。「誰かにお金を出してもらったら、その人に悪いと思って絶対やめやんとこと思うけどな、自分で全部出したらある意味、自分の勝手やからいつでも止めれてしまうねん。」何言うか。もうみんな巻き込まれまくってるで、止めるなよ。
ちなみに土地はすべて三重のおばあちゃんのものです。姉は旦那さんとともに大阪在住ですので、週の半分しか三重には来れませんが、三重に来た時は早朝から日暮れまで、私の中学時代のジャージをはいて泥だらけでなんかしています。農作業から帰ってくると、いつも湿ったアンパンマンみたいな顔をしていますが、嬉しそうです。
機械を色々世話してくれたヤンマー社の竹内さんは、もうボランティアにも近い形で、色々助けてくれました。いつも姉の田んぼを見に来てくれます。そして、親戚のおじちゃんからは、他にも農機具をただで譲ってもらい、ご近所の方々は「若いねーやんがなんか農業するらしい。」と言って、色々気にして見に来ては世話をしてくれるようです。若いという事は、それだけで多いに影響力がある。姉の場合、今流行の「かわいすぎる◯◯」とかにはならんけど、素朴でなんかよさそうなねーやんが、一生懸命泥臭く働いているという感じです。
この田んぼに水をいれる時も、それはそれはもめて、大変で、苦労したようです。毎日家族の会話では「やっぱり水はいってなかったって。」「あの土地の高低差があかんのとちゃうか。」「水をくみあげるポンプを買うしかないやろう。」と、みんなが「水、水」と水の話ばかりしていました。84才のばーちゃんは姉から「ばあちゃんは手を出さんといてよ!私がみんなするんやでな!」と息巻いていましたが、そのとき姉は大阪に居たので、ばーちゃんはいてもたってもおれずに、1人で岩を持ち上げて水をせき止めたりする有様。どう考えても若返ったな。
ヤンマーの竹内さん曰く「もう、道楽やと思ってやってくださいよ。農業なんて。利益がでると思ってやらんといてください。」と念を押していっていたほどに、難しい事です。誰も利益がでるなんて思っていませんが、姉は「どうにかしたい。」らしいですから、見守るしかないでしょう。この先、どうなるのか、誰にもわからない。けれど、新しいことの何も起こらない状態でなく、何か新しいことをやってやろうという人が家族にいる、ただそれだけのことが、家族全体、地域全体にぼわーんとなんかいい影響があるような気はしています。まあ、がんばろうや。

私の名前は30年間「瀬島志保子」でした。あまりない名字なので、好きでした。結婚して、旦那さんの名字になりました。旦那さんの名字でいたのは2年間ほどでした。この名字も、よく人からかわいらしいねと褒められていたので好きな名字でした。そして、3月にまた名字が変わりました。旦那さん、息子、私、全員名字が変わりました。新しい名字は、母の実家の名字です。私達は、祖母の養子にはいった形です。これからは、何事も無ければ一生この名字で暮らすことになります。
私の母は3人姉妹で、男兄弟が1人も居ませんでした。田舎は、家を継ぐということに何より重きをおいており、子どもの居ない夫婦は養子をもらったり、娘ばかりの家はお婿さんをもらったりして、相当な努力をしてずっと家を継いできたのでした。母の実家も、祖母自体が養女ですし、祖父はお婿さんに来ています、その夫婦には女の子しか産まれず、3人の姉妹は「誰が跡を継ぐのか」「あんたが男の子だったらよかったのに」といわれて育ち、それなりに3人は苦しんできたのでした。「どうして私は男ではないのだろう?」私の母もそれは苦しんで、思春期には円形脱毛症になったりと色々な葛藤を抱えて今まで生きて来たのでした。
その3人娘達は、それぞれ長男や一人っ子に嫁ぐことになり、とてもとてもお婿さんにきてほしいとは言えない家ばかりでした。3人娘はそれぞれに苦しみを抱えつつも、好きになった人に嫁ぎました。私の父は、そんな母の苦しみを理解して、家を母の実家のすぐ近くに建てました。継ぐ事はできないけれど、せめて近くに住みますと。私の三重の実家は、そんなことで三重の田舎に建っています。私は田舎に産まれて、田舎に育ち、とても幸せでした。祖母の家も、祖父母も大好きでした。
だから、母から、震える声で「おばあちゃんの家を継ぐ事はできないだろうか?」と言われたとき、びっくりしたけれど、いいことのほうがずっと多いと思いました。旦那さんも、旦那さんのご両親もこんな複雑なお願いに対して「二人が幸せであるなら、名前はどんな形でも構わない。」と言ってくださり、快く受け入れてくださいました。とても感謝しています。
84才のおばあちゃんは、「人生の終盤にこんなに嬉しい事が待っているとは想いもしなかった。」と言って、以前より元気に若々しくなりました。まだまだ長生きしそうです。そうして、5月3日、三重の田舎の料理屋で「お披露目会」をひらきました。写真は、その会場で眠ってしまった息子です。(要は良い写真を撮り忘れたんです)自治会長さんやら、祖母の家の行方を心配していた親戚の方々、総勢20名程が集まって「跡継ぎできたぞおめでとう」を祝いました。夫は、その場で「はじめまして。どうぞよろしく。」のスピーチを立派に果たし、親戚の方々にお酒をついでまわり、本当にがんばってくれました。社交の苦手な夫にしたら、大変な事だったと思います。
母はあのとき「清水の舞台から飛び降りるつもりで、あんたに言いだしてよかった。」と言っています。3人姉妹を長年苦しめていた跡継ぎ問題にピリオドが打たれました。私達夫婦が、私達の子どもが、この先どのような人生を辿るのかまだ何もわかりません。家ってなんだ、なんて古い考えなんだと疑問に思う人もたくさんいるでしょう。とりあえず、今私は「この名字を名乗る事で、幸せになる人の方がずっと多い。」という理由で名字が変わったに過ぎません。
瀬島志保子という名前は、これからもイラストレーターとして持ち続けるし、旦那さんの名字の名残も、色んな場所で私は持ち続けたい。3つの名前に、それぞれ愛着を持ち続けて生きて行きたいと思います。

息子がウイルス性の胃腸炎だとは知らずに、うんこもゲロも全身に浴びまくって無防備だった私に、ついにノロリーナが上陸。お腹がぺこぺこで母とうきうきしながら夕ご飯の支度をしていた夕方、お皿に盛りつけていたお刺身が、さっきまであんなに美味しそうだったのに、いつの間にか見るのも嫌になってきていたのです。
「やばい、、、。伝染ったわ。私もあかん。」今までけっこうな数の食中毒に合って来たある種百戦錬磨の私、この感覚は間違いない。せっかくの料理を目の前に、私はよろよろとソファに倒れ込んだのです。母は、ショックでだまったまま。息子は、ソファで死んだようになった私の腹の上でごろごろしていた。そうこうしている間に、ものすごい吐き気到来。私は冷静に洗面器をひっつかんで、床にふせっていました。「おええええええ!!!!」よだれが止まらないし、涙も止まらない。吐くときってなぜ涙も出るんでしょう。さっき新幹線で食べたおにぎりが変わり果てた姿で登場。栄養になることのなかった可哀相なおにぎり。母はまさに修羅場を迎えている私の背中を見て、絶句するばかり。母が背中をさすりに私に近づこうとしていたので「こやんといて!!うつるで!!」とよだれを垂らして叫ぶ私。自分がノロに感染したという事よりも、ウイルスを乗せて両親や姉夫婦のいる大阪に来てしまったことがショックでした。うつってしまったらどうしよう!私が感染したということは、同じく汚物処理をした夫も、、、。
私はその後、4回吐き、5回下痢をし、発熱し水分もとれず床にふせっていました。苦しがってアイスノンを要求した私に、姉が巨大でがっちがちのアイスノンをごとっと頭に置いて行ったことだけを覚えています。短時間で急激に体調が悪くなった私は、回復も急速でした。朝になると、お腹も減って、水分もがぶがぶ取れるようになっていました。危機は脱した。そして、私が回復するのとほぼ同じ頃、東京で1人で過ごしていた夫に、やはりノロリーナが上陸していたのでした。まさに、汚物処理をした順番で、見事に感染しました。
夫は吐く事はなく、下痢と関節の痛みやだるさで3日程苦しんだそうです。私のように急激に全部出したわけではなかったので、それだけ長引いたようでした。幸い、大阪に居る家族には誰一人感染する事無くみんな元気だったので良かったです。今回の事で、自分の無防備さと無知に対して多いに反省しました。そして、息子も夫も私も大事には至らず、今日も元気でご飯が美味しく感じられて、良かったです。

写真は、夫が息子に買って来てくれた誕生日プレゼント。むか〜しからよくある、あれです。けたたましく吠える子犬のおもちゃ。なかなか古風なプレゼントを、、、。おそらく、反応が見たかったのでしょうね。息子はのけぞって逃げていきました。「オレのプレゼントが気に入らないのかなあ、、。」と夫。そんなことないさ。
そんな平和な誕生日も過ぎたある日。朝いつものように機嫌良く起きた息子。車のおもちゃで楽しそうに遊んでいた次の瞬間、「おええええええ!」と突如苦しそうに嗚咽を漏らしたのです。昨夜食べたアボガドの小さなカケラと、胃液を少々出して、そのあと何事もなかったようにまた遊び始めました。「?なんだったのか?」少しの不安がよぎった物の、以前機嫌は良さそうだったので、特に対策もせず時間が過ぎて行きましたが、しばらくするとまたもや「おええええ!」と嗚咽をもらしてよだれを垂れ流す息子。でも、嗚咽を繰り返すわりに、すぐに立ち直りずーっと機嫌の良い強靭な息子。私はどうしたものか分からずに、嗚咽をその後も何度かもらす度に背中をさすることくらいしかできませんでした。
しかもこの日は麻疹の予防接種の日だったのです。とにかく、せっかくなかなか取れない小児科の予約を取り付けてあったので、診せながら判断をあおごうと決めました。ごったがえす待合室で待つ事40分、やっと番号を呼ばれて診察室へ。このときもずっと機嫌の良い息子。優しい女性の先生は、「ウィルス性の胃腸炎かもしれないけど、機嫌がこれだけいいし、今は麻疹も流行ってるから予防接種しましょう。」ということで予防接種をしてもらい、家に帰りました。
その夜。息子下痢を二回する。ここまできても、私は「うつる」ことはつゆとも考えず、無防備に息子の下痢やゲロを浴び続けていました。あほでした。ウィルス性とは、つまり、うつるってことです。おそらく、ノロ?なぜ全くうつることを考えなかったのかというと、ウイルス性胃腸炎は4月や5月は最も流行らない季節だったからです。小児科の先生も特に対策も言ってなかったし、すべてが「かもしれない」でした。しかも、苦しみのたうちまわると聞いていたノロだったので、ずっと機嫌の良い息子を見て、軽い食中毒だと考えていました。そして、深夜3時、息子ついに大規模なゲロを発射。私もゲロまみれに。夫も夜中に手伝って、せっせとゲロの始末をしました。やはり息子はすっきりした顔をして、少しはしゃいだ後寝ました。その後、私はゲロにまみれたシーツや服を洗い続けました。
次の日、、、。私と息子は、GWを大阪と三重で過ごすべく旅立つ予定でした。行くかどうか迷いましたが、息子はすっかり機嫌も良く、大阪での予定も色々あったので出発したのです。新幹線では息子はずっと寝ていて、苦労せずに到着しました。胸をなでおろし、大阪で母と一緒に夕飯の支度をしていたのですが、、、、。ついにノロの魔の手が私にしのびよってきたのでした。

いや、正確には明日が誕生日なのですが、気の早い私は色々無視してこれを書いています。息子がまだ物心ついていないのをいいことにね、ケーキとか誕生日の写真とかも日曜日に無理矢理撮ってもうた。だって、夫が平日だといないのでね、私と二人っきりの誕生日より両親に囲まれての誕生日のがよかろう。
そうして、無理矢理に100均で買った「Happy Birthday」と書かれた王冠をかぶらされ、写真を撮らされた息子。予定外の撮影大会が始まったので、うっかりぼさぼさスエット姿で撮ってしまったけど。何にもわかってないよな。それでいいんだ。誕生日の写真というのは、大きくなってから見て喜ぶもんなんだ。「オレ、大事にされてんじゃん、、、。」っていうのが大事なんだよ。私も自分が1才の誕生日の写真があって、家族に囲まれて、ケーキにロウソクを一つ立ててもらっている写真、すごく好きだもの。
ついさっき、夫のご両親からのお祝いの品を受け取りました。おおー!すごいかわいいカード!!!クリスマスも、初節句お祝いも、お年玉も、毎回かわいいカードと一緒にお祝いしてくれるご両親です。本当にどうもありがとうございます。息子も無事に一才を迎える事ができました。(正確には明日)おじいちゃん、おばあちゃんの愛を神奈川から浴びて大きくなりました!!!ありがとうございます!

部屋はこの散らかりようです。これだけ散らかせるのも、成長の証として前向きに捉えたいと思います。ご近所のお子様のお古のおもちゃを最近どかーんと大量にいただきまして、もう10年はおもちゃがいらないかもしれません。しかし、日々息子が遊ぶのを見て思ったのですが、「おもちゃ」ってね、何でもいいんです。赤チャンは。ペットボトルのフタ、インスタントコーヒーの空き瓶、夫のマッサージ用具、昆布が入ってた容器、うちわなどなど。実際この写真に写っているもののほとんどは、おもちゃとして生まれてきたものではないものです。もう、かじれたらなんでもいい。区がやっている子育て広場でも、赤チャンは全員ビニールテープをダンボールに巻いた物が大好きで、みんな大麻をやってるんかというくらいにそれを口に入れてうっとりしています。
息子と遊んでいる時に、「ん?この感覚前にもどこかで、、、!」と思い出した事があります。それは飼い猫と遊んでいたときのことです。確かネコと遊んでいた時もこんな感じだったな。ボールをころころ転がしたり、こそぐったり、いたずらをしているのを「こら!」と後ろから怒ったり、、、。
そして、子どもができてふと気がついたこと。それは「なぜ、私の母はあんなにもテンションが高かったのか」という謎がとけたことでした。うちの母は毎日朝からテンションが高くて病気じゃないかと思った事もありましたが、それは、母が努めてテンションを高くしていたのだということが、自分が母になって分かりました。たいがいのお母さんは、テンションが高くないですか?それは、子どもの前では明るくしていたいというお母さんの優しさなのだと、私はやっと気がつきました。母がいつも明るく振る舞ってくれたから、自分は落ち込んだり、嫌な事があったときも大丈夫だと思えたんだ。いつのまにか、息子の前で自然とテンションを高くしている自分が居て、「母という生き物」の有り様について少しわかった気がしました。
息子にとっても、そりゃあ激動の一年だっただろうが、私にとっても激動の1年だったです。1年間無事に生き延びてくれた、ありがとう。