私の名前は30年間「瀬島志保子」でした。あまりない名字なので、好きでした。結婚して、旦那さんの名字になりました。旦那さんの名字でいたのは2年間ほどでした。この名字も、よく人からかわいらしいねと褒められていたので好きな名字でした。そして、3月にまた名字が変わりました。旦那さん、息子、私、全員名字が変わりました。新しい名字は、母の実家の名字です。私達は、祖母の養子にはいった形です。これからは、何事も無ければ一生この名字で暮らすことになります。
私の母は3人姉妹で、男兄弟が1人も居ませんでした。田舎は、家を継ぐということに何より重きをおいており、子どもの居ない夫婦は養子をもらったり、娘ばかりの家はお婿さんをもらったりして、相当な努力をしてずっと家を継いできたのでした。母の実家も、祖母自体が養女ですし、祖父はお婿さんに来ています、その夫婦には女の子しか産まれず、3人の姉妹は「誰が跡を継ぐのか」「あんたが男の子だったらよかったのに」といわれて育ち、それなりに3人は苦しんできたのでした。「どうして私は男ではないのだろう?」私の母もそれは苦しんで、思春期には円形脱毛症になったりと色々な葛藤を抱えて今まで生きて来たのでした。
その3人娘達は、それぞれ長男や一人っ子に嫁ぐことになり、とてもとてもお婿さんにきてほしいとは言えない家ばかりでした。3人娘はそれぞれに苦しみを抱えつつも、好きになった人に嫁ぎました。私の父は、そんな母の苦しみを理解して、家を母の実家のすぐ近くに建てました。継ぐ事はできないけれど、せめて近くに住みますと。私の三重の実家は、そんなことで三重の田舎に建っています。私は田舎に産まれて、田舎に育ち、とても幸せでした。祖母の家も、祖父母も大好きでした。
だから、母から、震える声で「おばあちゃんの家を継ぐ事はできないだろうか?」と言われたとき、びっくりしたけれど、いいことのほうがずっと多いと思いました。旦那さんも、旦那さんのご両親もこんな複雑なお願いに対して「二人が幸せであるなら、名前はどんな形でも構わない。」と言ってくださり、快く受け入れてくださいました。とても感謝しています。
84才のおばあちゃんは、「人生の終盤にこんなに嬉しい事が待っているとは想いもしなかった。」と言って、以前より元気に若々しくなりました。まだまだ長生きしそうです。そうして、5月3日、三重の田舎の料理屋で「お披露目会」をひらきました。写真は、その会場で眠ってしまった息子です。(要は良い写真を撮り忘れたんです)自治会長さんやら、祖母の家の行方を心配していた親戚の方々、総勢20名程が集まって「跡継ぎできたぞおめでとう」を祝いました。夫は、その場で「はじめまして。どうぞよろしく。」のスピーチを立派に果たし、親戚の方々にお酒をついでまわり、本当にがんばってくれました。社交の苦手な夫にしたら、大変な事だったと思います。
母はあのとき「清水の舞台から飛び降りるつもりで、あんたに言いだしてよかった。」と言っています。3人姉妹を長年苦しめていた跡継ぎ問題にピリオドが打たれました。私達夫婦が、私達の子どもが、この先どのような人生を辿るのかまだ何もわかりません。家ってなんだ、なんて古い考えなんだと疑問に思う人もたくさんいるでしょう。とりあえず、今私は「この名字を名乗る事で、幸せになる人の方がずっと多い。」という理由で名字が変わったに過ぎません。
瀬島志保子という名前は、これからもイラストレーターとして持ち続けるし、旦那さんの名字の名残も、色んな場所で私は持ち続けたい。3つの名前に、それぞれ愛着を持ち続けて生きて行きたいと思います。