
私立高校の英語教師を突如辞め、貯めた金をトランクにつめて、1年スペインに留学していた姉が帰って来た。女寅さんの異名を授かりながら、今までも数々の国をふらふらとしてきた姉。「今度で最後やもん。」との捨て台詞を吐いて、必死で止める家族をふりほどいて、スペインで何をしておったのやら。
スペインに行っているはずが、ある時はギリシャから、ある時はイタリアから、毎月のように違う国から絵葉書が届いていた。その度に、父や母は「あいつ〜!どこでなにやっとんのや。」と嘆きつつも無事を知る。私のパソコンには、サングラスをしてオープンカーに乗っている姉の写真が届いていた。その度に「ママ、ねえちゃん、遊んどんねんで!」と私は母にちくっていた。
その姉が「甥っ子が産まれた〜!」といって、元気に帰って来た。髪の毛は雑木林みたいにぼっさぼさだった。向こうでハレンチな水着でも着ていたのか、おかしな日焼けをしていた。写真は、姉からのおみやげ。生ハムと、オリーブの缶詰と、甥っ子の服。
体力がバイソン級の姉は、育児に疲れきっている私の強力な助っ人となった。息子が泣けば、ヘラヘラ笑って抱っこしてくれた。そして初めて姉が息子のオムツを替えてくれたとき、息子のオケツから姉めがけて一筋の黄土色の塊が発射された。「あひゃ〜!」という姉の叫び声。初めてのオムツ替えなのに、姉は息子にウンコを浴びせられたのだった。私はショックであった。じゅうたんにも、私の布団にも、もちろん姉の服にもべったりとウンコが浴びせられたからだ。ところが、姉は死ぬ程楽しそうに笑っていた。お腹を抱えて笑っていた。膨大な洗濯物を考えてショックだった私も、あまりに姉が楽しそうだったので、一緒になってお腹を抱えて笑った。「三十路シスターズの悲劇」だと思っていたら、「三十路シスターズの喜劇」に変わっていた。元気で楽観的で前向きな人間というのは、すごい。と私は思った。松岡修造みたいだと思った。

三重に来た次の日から、私の中学時代のジャージを着て、姉はばあちゃんの畑に通い始めた。「私農業するわ〜。」と言って、ウソか本当か知らんけど大口をたたく姉を見て、ばあちゃんは涙を流して喜んでいた。
ばあちゃんの耕耘機「ポチ」をへっぴり腰で操る姉。完全にポチに踊らされていた。それでも、鋼の心臓を持つ姉は、朝から夕方まで、エネルギーを放出し続けてばあちゃんの畑の草を抜き続けた。「なおちゃんは、どないなっとんのやろ?」ばあちゃんも姉の凄まじい体力に、むしろ不安を覚えていた。おやつに出したでっかいまんじゅうを3つ食ったらしい。
姉はゼンマイ仕掛けのおもちゃのように、ゼンマイが切れたら突然倒れるように眠った。それまでは、エネルギーを放出し続ける。父が、「オレにとって、あいつは男や。息子みたいなもんやな、、、。」と言っていたが、ジャージのズボンからだらしなくシャツを出している姉を見て「シャツをしまいなさい。」と注意していた。30過ぎて身なりを父から注意される姉だったが、やはり私の赤ちゃんを苦もなくあやしつづけてくれて、お風呂にも入れてくれる。なにせ体力がバイソンだから。
彼女はとてもピュアハートな人間である。元気に帰って来てくれて、とても嬉しい。

再び泣き過ぎて見当はずれの場所へ出張中。ベビーベッドの購入を考える。
赤ちゃんを産んだら、ホルモンのバランスで母乳が出る。それって、私にも当てはまるんだろうか?入院二日目から母乳指導が始まった。あの日から、私のチクビは息子のものとなった。
授乳室に入ると、そこにはおっぱいをペロンと出したお母さん仲間3人が、おっぱいを猛然とマッサージしながら座っていた。銭湯などで、脱衣所に入った時にたくさんの他人の裸に圧倒される瞬間があるけど、あんな感じの気まずさが流れる。「うおー!すごい光景。私もここの仲間入か、、、。」と最初の初々しい想いは、いつのまにか当たり前の光景となるのだった。
痔がものすごかった私は、特別にしっかりした円座クッションを渡され、その上に座り、マッサージを始めた。赤ちゃんが運ばれて来て、まだ何も出ていないおっぱいをくわえさせる。私の息子は、力が強かった。ものすごい吸引力で吸い始めたので、私は痛すぎて悲鳴をあげた。(いい加減我慢しろと言いたい)「痛いのは、出産だけじゃないのでは!!!??」そのときの嫌な予感は的中し、長い受難の日々が始まる。「あー、瀬島サンのチクビ固いねー。これは赤ちゃん吸いにくいと思うよ〜。」そういって近づいて来た二人の看護師さんが、おもむろに私のチクビをがしっと掴んで、猛烈に引っ張り始めた。それがまた、ものすんごい痛さであった。私はまたもや泣き叫んだ。二人の女性からチクビを引っ張られる光景。「なんやこれ!なんやこれー!!」と思って痛さに大騒ぎしていると、ナースステーションの奥から、陣痛の時に私が突き飛ばした肝っ玉母さん看護師さんが現れて、「瀬島サン、特別に痛がりで怖がりやでな、手加減したらいかんよ。」とのたまったのだった。こんな形で復讐されるとは思わなんだ。そうして、肝っ玉母さんまでもが参加して、私のチクビを力一杯こねくりまわしていった。
授乳室から出てくる私は、いつも涙と汗と、かすかに出て来た乳汁でボロボロになっていた。3時間毎の授乳タイムが恐ろしくて恐ろしくて、痔と会陰切開の痛みとチクビの痛みという、まさに三重苦。ようこそ痛みのデパートへ、ありとあらゆる痛みをご用意しましたというデパートガールの声が聞こえる。はあ、こんな種類の痛みがあったんですなあ、とベッドに横たわりながらぼんやりと考えて、だんだんと頭もおかしくなってきたのかもしれないと思う。

痛みを乗り越えて、2週間後には母乳100パーセントの哺乳瓶を完成させるまでとなった。肝っ玉母さんの腕力に感謝。
ふと気付くと、私の乳はびっくりするほどでかくなっており、叶美香の乳を持つ福原愛選手みたいになっていた(私は福原選手に似ている)。痛みを乗り越えてと言ったが、相変わらず吸われる時は痛くて、授乳の時は毎回緊張する日々が続いています。汗と母乳でおっぱいが蒸れて、あせもも併発。掻きむしった挙げ句に、乳が血だらけになった。こうなったらもうホラーだ。チクビが服にすれると痛いので、常にラップをチクビの先に装着。もう痛みさえ軽減されればなんでも良い。
おっぱいに全ての水分を奪われるのか、気がついたらウンコが自分史上最強の固さになっていた。ダイヤモンドウンコの登場である。痔に、固いウンコの取り合わせがどんだけの悲劇を生むのかみなさんご存知だろうか。もちろんのごとく、切れ痔も登場した。私は、痛みのデパートの上顧客となった。痔の無い生活ってどんなんだったっけ、、、。
そうして、本日も私の体から出る汁だけで生き延びている生き物が居て、それはすなわち息子ですが、いつまでたっても不思議な光景でなりません。

泣き過ぎて、動き過ぎて、布団からはみ出た息子の図。泣きつかれて呆然としています。
だいぶ日が経ったので、記憶が薄れつつありますが、続きを書きます。
「おしっこが出ないんです。」と2回もナースコールで呼んだのに、夜勤明けだった超美人の看護師さんは「お産の時に一度おしっこは取ったので、たまっていません。」と言って、なぜか取り合ってくれなかった。こんなにも何も恥ずかしがらずにオープンマインドに悩みを打ち明けている私になんという仕打ちであろうか。夜勤明けで面倒くさいのは分かるけど、、、「美人は意地悪」というセオリーをぼんやり考えながら、尿意を感じつつ金縛りにあったように横たわり続ける。
あまりにも自由がきかないので、どうにか助けてくれるひとが欲しくて、必死に母に電話をする。「ママ、、、?もう私あかんわ、死ぬかと思ったんや。自分で何にもできやんねん。おしっこもできやんねん。」その連絡を受けて、初孫を授かった母飛んでくる。ついでにひ孫を授かったばあちゃんも、来た。二人は廃人になった(その割に太っている)私を見て、別の看護師さんに「しっこ取ったってくれ。」と依頼する。
そうしたら、石野真子にそっくりの最高にホスピタリティ溢れる看護師さんが、私の尿道に管をさし、吸い取ってくれた。でっかい容器が満杯になった。ほれみたことか!母はなぜかその満杯のおしっこを喜んで、私の導尿シーンの写真を撮っていた。母は産後に出た私の巨大なウンコさえも、写真に撮っていた。記念にすべき部分が間違っている。
私はその後も、何度便器に座ってもおしっこが出ず、何人かの看護師さんが入れ替わり立ち替わり促しに来た。深夜には、平野レミに似ている敏腕看護師さんがやってきて、私を便器に座らせ、辛抱強くおしっこをするように語りかけてくれた。そうして、「ものすごい痔が出たんです。もう私の肛門は死にました。」と泣く泣く告白する私に「診せてみな。」とレミが言うので、私はレミに肛門を公開した。「な〜んや、大したことないよ。私肛門がカリフラワーみたいになった人見た事あるもん。」という衝撃の発言をした。「かかかかか、カリフラワー!!??」肛門がカリフラワー、、、、。そうか、じゃあまだ私のは金時豆が2〜3個レベルだから、治るのかも、、、。とものすごい私を安心させるのに威力を発揮した言葉だった。
ところが、「私が押し込んであげる。」とレミはまたもや私を恐怖のどん底に突き落とした。「いいです。自分でやりますからあああ!!」と泣き叫ぶ私に「あかん、もーあんたは怖がりって本当やなあ!ほれ、寝転がりな。」といって、指に薬を塗りたくっておもむろに、しかし力強く私の金時豆たちを押し込んだのだった。「ぎゃあああああ!!!」深夜の産院に再び私の泣き叫ぶ声が響いた。その後、レミは結局出なかった私のおしっこを再び導尿し、痛み止めをくれて「明日は自分でおしっこするって約束してな。」といって去って行った。レミのお陰で、私はよく眠れて、朝起きたら自分でおしっこができるようになっていた。私がもし小さい頃にレミに出会っていたら、看護師さんを目指したかもしれない。ただし、痔は治らなかった。
こんな調子で(突然色々はしょります)5日間の入院生活を過ごしたのですが、他の3人のお母さん仲間達は全員普通に立ったり座ったりしているなか、私は最後まですり足で歩き、痔が痛くて座れないのでずっと立ったまま食事をしていた(立ちながらもいつも完食であった。)ここでは、「恥ずかしい事」というのが何なのか完全に麻痺するのか、あるお母さんはいつも上半身裸でぷらぷらしていたし、私は部屋に誰がはいってこようと、いつもおしりを出しながら痔を押し込む作業をしていた。掃除のおばさんと、いつも痔の話をしながら日々が過ぎて行った。ウンコの事、おしっこの事、下半身の痛みの事、痔の事、私はほとんどその話しか口にせずに日々が過ぎて行った。そして、今もまだその事ばかり考えている。まだ普通には座れない。
産院、それは非常におおらかな、奇跡のような場所である。お産、女達は、みなどうやら本当にあの痛みを忘れるのだ。私は、私だけは絶対に忘れるもんかと思ってはみたものの、それはなんの得にもならないことだった。あの人も、あのママタレントも、あのおばさんも、あの友人も、何食わぬ顔で胸に赤ちゃんを抱いているが、私みたいにうじうじと怖いだの死ぬだの痛いだのとわめきもせず、さばさばとした顔つきで乳をやっている。
夫が5月12日に「初めての母の日だね。」と言ってくれた。そのことが最初何のことか分からなかった私だけれど、少しずつ母になっていくのだろう。痛みも、きっと忘れていくのだろう。

親戚のさやかちゃんから、息子さんのそうちゃんのおさがりの服をめちゃくちゃたくさんいただいた。ロンパースからズボンからよだれかけから冬の帽子、靴下まで、もう一生服には困らないだろう。しかもさやかちゃんは超おしゃれさんなので、全部めさんこかわいい服ばかりです。嬉しくって小躍りしました。これは、やがてうちの姉の子どもにも受け継がれる予定です(まだ結婚もしてないけど)。男女関係なく、大事に着せます。ありがとう!さやかちゃん!!
そうして、続きに行きます。
赤子が産まれた瞬間から、看護師さんたちはもう私の事は放り出し、赤ちゃんの処置に大忙しの模様。私は分娩台で呆然としている。産まれた時間は明け方4時28分、3297グラムの男の子でした。産まれたばかりの赤ちゃんを見て、私が一番驚いたのは、耳が完全に耳の形をしていたことだった。そして、私が産後最も恐れていたのが、「会陰縫合」であった。裂けた会陰を、その名の通りチクチクと縫うのだ。先生が、縫い始めた。「もう騒ぐまい。陣痛とさっきまでの苦しみに比べたら、こんなもの蚊にさされたのと同じくらいだ。」と必死に言い聞かせる。ものの、やはり「せんせー、まだですかー。痛いですー。」と弱音をこぼす。その声を受けて、再び会陰に麻酔を打ってもらう。
「あんた、だいぶん裂けたねえ。中の中まで裂けたねえ。そんで、痔もかなり出たよ。これはしばらく痛いよ。」その台詞に私は身震いをした。「サケタ、、、オクマデサケタ。ヂモデタ。ワレノ排尿排便機能、壊滅シセリ。」誰にとは言わないが、私は密かに心の中で電報を打った。もう私の下半身は、私の預かり知らぬものとなった。
私はどうやら調子に乗って脱糞を二回程したようで、看護師さんが不機嫌そうな顔をして、何やらごしごしと洗っていた。もう完全にうんこを出すイメージで臨んでいたので、当然と言えば当然の結果です。

赤子の爪切り真っ最中。案外この爪で引っ掻かれると、すごく痛い。己の乳を守る為に切るべし。米粒に絵を描く達人を雇いたいもんです。私が赤ちゃんの時、母が私の爪切りをしていて、誤って身まで切ったそうな。
永遠とも思える会陰縫合の後、赤ちゃんと記念撮影をして、再び私は車いすに乗せられ個室部屋に戻った。完全に、自分の体は自分の物ではないように自由が利かなくなっていた。自分のイメージでは、疲労と恐怖で私の髪の毛は白髪になっている予定だったが、鏡に映った私の髪の毛は、平凡な茶髪の主婦のままであった。鉛のように重い体、足も動かない、もう股の部分はぐっちゃぐちゃ、手も動かない。車いすから下ろされてベッドに横たわった私は、密やかに泣いた。自分があまりにもお産がヘタクソだったことと、もう怖い目に合わなくていいんだという安堵と、体が動かなくなった衝撃と、色々な想いがちゃんぽんになって、しんみりと泣いた。
そして、あまりにも疲労していて、お腹が空いていた。でも、普通出産直後の妊婦は、アドレナリンが出まくっていて眠れないそうだ。私も、ものすごい疲れているのに、全く眠れなかった。そしたら朝食が運ばれて来た。目の前に置かれているのに、その朝食がとても遠くにあるように感じた。でも、食べたい。お腹が空いているんだ。
私は、サリバン先生と出会う前のヘレン・ケラーのように、めちゃくちゃな食事をした。手に当たってフォークが床に落ちても拾えないので、そのままにした。ジャムもマーガリンもべったべたに手についた。お盆の上はぐちゃぐちゃだった。次に尿意を感じた。排尿設備は死んでいるはずだが、なんてこった。今あの暗黒部分から何かをひねりだすなんて考えたくもない。点滴やら背中の麻酔のチューブがぶらぶらとぶらさがったまま、2メートル先のトイレに這うようにしてようやく座った。ところが、やっと座ったのに、何も出ないのである。おしっこを、どうやってするか忘れてしまったかのようだった。15分ほど座っていたが、結局尿意を感じたまま私は一滴もしぼりだせなかったのだ。頻尿キングの名を欲しいままにしてきた私には衝撃であった。
しつこいようですが、まだ続くんです。

春キャベツと靴下。ポエムチックに、、、。
そんなことで、私の痙攣のおかげで急遽無痛分娩に切り替えてくれる事となった。うめいていた病室から、私は車いすで分娩室へと運び出された。髪の毛は、私が引っ張り続けたのでぐっちゃぐちゃ、しかも痙攣したままだったので、薬中の患者のような有様。それが多分夜中の1時ころだったと思います。
分娩台に乗っても私は痙攣が止まらないので、看護婦さんが二人掛かりで押さえつけて背中に無痛分娩の注射を打ちました。背中の注射って痛いとか聞くけど、もうこの時は何の痛みだかどうでも良くなっていて、気付かないくらいでした。注射は驚く程早く効いて、いつのまにか痛みが薄れて行きました。やっと人間らしさを取り戻してきた私の顔を覗き込んで、先生が「あんたぁは、人一倍怖がりなんやなあ、、、。もう痛ないやろう?安心しなさい。」と、確認するようにつぶやきました。「そうですぅ、、、。すいませんん。」と、ものすごい醜態をさらしていたことを思い出し、申し訳なくてぐずぐずと私は今度は泣いていました。
ところがどっこい、ここからは、もっとひどい。注射が効いて、鼻水と涙でぐちゃぐちゃの私にしばし平和が訪れた。お腹には、赤ちゃんの心音を確かめる為の機械と、陣痛が来ている事を計る機械が取り付けられていた。「ウンコをしたい気持ちになったら、赤ちゃんが産まれるサインですから、言ってくださいね。」と言い残し、先生は多分仮眠、看護婦さんはこなさなければならない業務を続けていた。ここからがかなり長くて、なかなか便意はおりてこなかった。
たまに様子を見にくる看護婦さんも「まだか〜」という表情で帰って行く。そのとき、、薬でおさえられていたはずの陣痛が、またもや登場するのである。ぎゅいんんんんん〜とあの恐ろしい痛みが忍び寄ってくる。「なんでやー!!」と思いながら、私は再び叫び始める。志保子が野生に帰る時代がまたやってきたのだ。薬を打ってもこの痛みということは?打ってなかったら一体どんだけだよ!!と私は恐怖におののいた。(いい加減慣れろと言いたい)
それで、もう早く出してしまいたいという願いばかりが先走って、便意がそれほどでもないのに、私はアホみたいにウソをついたのだ。「ウンコしたいですううう!!!」と。アホだ。ウソついてもなんの得にもならない事態なのに。その便意宣言を受け、先生も看護師さんもスタンバイに入る。足を台にのせ、テレビで観た事のある、かの有名な出産シーンである。あの台に今自分が乗っている、誰も代わる事のできない役所なのだ。産むのは自分しか居ないのだ。でも、便意がウソだったから、そっからが長いよ。みんな「あれ?」という顔をしている。
「出産ってね、でっかいウンコをする感じだよ。」と話してくれた、友人ひとみちゃんとY先生の声がこだまする。「ああ、なんだ。ウンコをする感じかあ。」それを鵜呑みにしすぎて、私は本当にウンコをぶっ放したらしかった。その後、「はい!力混めていきめー!!」と言う声がしたのに、どうしたらいいかわからずに、私はいきむのではなく「わあああああああ」と叫んだ。全く見当はずれの行為に先生達はびっくりしたように怒る。
「ちゃうがなー!叫んでどうすんのー!!いきむのー!声だしたら力が逃げるでしょうがー!!声を出さずにいきみなさいー!」看護士師さんと先生が夢中で指示を出す。それでも私は間違い続ける。小学生の頃、3段の跳び箱が跳べなかったのは、確か私だけだった。逆上がりを放課後居残りで練習させられたのも、いつの間にか私一人になっていた。自分の体の機能を、昔からコントロールするのが苦手なのだ。よく分からないのだ。
「おしりをあげちゃダメー!どーんと床につけなさいー!踏ん張れないでしょーが!!」まだ先生達は怒っている。「全然言う事きかんし、いきむタイミングがこの子おかしいなあ、、。ちょっと難しいなあ。」先生の困惑した声がする。難しい、お産ってなんて難しいんだ。逆上がりや跳び箱みたいに、結局飛べずに成績が2になるだけでは済まないのだった。産まないと、終われないのだ。そんな事を考えながら、私は今度は呼吸困難に陥っていた。酸素マスクがあてがわれた。私はその酸素マスクが逆に苦しくて、取ろうと必死でもがくと、「取っちゃダメー!」とまた怒られた。もう完全なお産落第生だった。
「これはもうバキュームやなあ。」赤子をひねり出す力に難ありと判断され、赤ちゃんの頭に吸引機をつけて引っ張りだす処置が行なわれた。もう、なんでもええ。出したってくれ。私が下手ないきみをしている間、赤ちゃんの心音がなくなるのが分かる。「ええか、あんたがいきんで呼吸をしてない間、赤ちゃんにも酸素がいかないんよ?赤ちゃんも苦しいんよ?」という声が聞こえる。もうその後は無声映画のようでした。

バキュームで引っ張られた跡かなあ?と私が勝手に思っている、頭の一部が赤く禿げている部分。違ったりして。
出たという感覚が全くないのに、いつの間にか産まれていた。口がカラカラで、顔中に力をいれたせいで、私の顔には赤い斑点が無数にできていた。赤ちゃんがちゃんと泣いた。
「物事には、ちゃんと終わりがあるんだ、、、。あの苦しみにも、終わりがあったんだ。」感動なんて話ではない。もうただただあの苦しみが終わった事が嬉しかった。
お産スペシャルは、まだ続きます。