泣き過ぎて、動き過ぎて、布団からはみ出た息子の図。泣きつかれて呆然としています。
だいぶ日が経ったので、記憶が薄れつつありますが、続きを書きます。
「おしっこが出ないんです。」と2回もナースコールで呼んだのに、夜勤明けだった超美人の看護師さんは「お産の時に一度おしっこは取ったので、たまっていません。」と言って、なぜか取り合ってくれなかった。こんなにも何も恥ずかしがらずにオープンマインドに悩みを打ち明けている私になんという仕打ちであろうか。夜勤明けで面倒くさいのは分かるけど、、、「美人は意地悪」というセオリーをぼんやり考えながら、尿意を感じつつ金縛りにあったように横たわり続ける。
あまりにも自由がきかないので、どうにか助けてくれるひとが欲しくて、必死に母に電話をする。「ママ、、、?もう私あかんわ、死ぬかと思ったんや。自分で何にもできやんねん。おしっこもできやんねん。」その連絡を受けて、初孫を授かった母飛んでくる。ついでにひ孫を授かったばあちゃんも、来た。二人は廃人になった(その割に太っている)私を見て、別の看護師さんに「しっこ取ったってくれ。」と依頼する。
そうしたら、石野真子にそっくりの最高にホスピタリティ溢れる看護師さんが、私の尿道に管をさし、吸い取ってくれた。でっかい容器が満杯になった。ほれみたことか!母はなぜかその満杯のおしっこを喜んで、私の導尿シーンの写真を撮っていた。母は産後に出た私の巨大なウンコさえも、写真に撮っていた。記念にすべき部分が間違っている。
私はその後も、何度便器に座ってもおしっこが出ず、何人かの看護師さんが入れ替わり立ち替わり促しに来た。深夜には、平野レミに似ている敏腕看護師さんがやってきて、私を便器に座らせ、辛抱強くおしっこをするように語りかけてくれた。そうして、「ものすごい痔が出たんです。もう私の肛門は死にました。」と泣く泣く告白する私に「診せてみな。」とレミが言うので、私はレミに肛門を公開した。「な〜んや、大したことないよ。私肛門がカリフラワーみたいになった人見た事あるもん。」という衝撃の発言をした。「かかかかか、カリフラワー!!??」肛門がカリフラワー、、、、。そうか、じゃあまだ私のは金時豆が2〜3個レベルだから、治るのかも、、、。とものすごい私を安心させるのに威力を発揮した言葉だった。
ところが、「私が押し込んであげる。」とレミはまたもや私を恐怖のどん底に突き落とした。「いいです。自分でやりますからあああ!!」と泣き叫ぶ私に「あかん、もーあんたは怖がりって本当やなあ!ほれ、寝転がりな。」といって、指に薬を塗りたくっておもむろに、しかし力強く私の金時豆たちを押し込んだのだった。「ぎゃあああああ!!!」深夜の産院に再び私の泣き叫ぶ声が響いた。その後、レミは結局出なかった私のおしっこを再び導尿し、痛み止めをくれて「明日は自分でおしっこするって約束してな。」といって去って行った。レミのお陰で、私はよく眠れて、朝起きたら自分でおしっこができるようになっていた。私がもし小さい頃にレミに出会っていたら、看護師さんを目指したかもしれない。ただし、痔は治らなかった。
こんな調子で(突然色々はしょります)5日間の入院生活を過ごしたのですが、他の3人のお母さん仲間達は全員普通に立ったり座ったりしているなか、私は最後まですり足で歩き、痔が痛くて座れないのでずっと立ったまま食事をしていた(立ちながらもいつも完食であった。)ここでは、「恥ずかしい事」というのが何なのか完全に麻痺するのか、あるお母さんはいつも上半身裸でぷらぷらしていたし、私は部屋に誰がはいってこようと、いつもおしりを出しながら痔を押し込む作業をしていた。掃除のおばさんと、いつも痔の話をしながら日々が過ぎて行った。ウンコの事、おしっこの事、下半身の痛みの事、痔の事、私はほとんどその話しか口にせずに日々が過ぎて行った。そして、今もまだその事ばかり考えている。まだ普通には座れない。
産院、それは非常におおらかな、奇跡のような場所である。お産、女達は、みなどうやら本当にあの痛みを忘れるのだ。私は、私だけは絶対に忘れるもんかと思ってはみたものの、それはなんの得にもならないことだった。あの人も、あのママタレントも、あのおばさんも、あの友人も、何食わぬ顔で胸に赤ちゃんを抱いているが、私みたいにうじうじと怖いだの死ぬだの痛いだのとわめきもせず、さばさばとした顔つきで乳をやっている。
夫が5月12日に「初めての母の日だね。」と言ってくれた。そのことが最初何のことか分からなかった私だけれど、少しずつ母になっていくのだろう。痛みも、きっと忘れていくのだろう。