
39週と二日目。まだ産まれません。もうこのまま腹の出たおばさんとして一生過ごすんじゃないかと心配になる。看護婦さんによると、真夜中に産気づく人が多いらしい。なのでけっこう毎晩ドキドキしながら床につく。
神経過敏になって、少しの胎動でも起きるようになる。陣痛なのか胎動なのかよく分からないまま、「10分おきに痛みがきたら陣痛」という情報をもとに、真夜中にはっと起きてメモを残す。でも、だいたい違って、睡魔に負けてそのまま寝てしまうという夜を繰り返していました。そうして、私は今「ちょっとやそっとじゃ産まれんのや」という結論に至り、随分鈍感になってきました。ここ数日は、夜中にちょっとお腹が痛くても、もう無視して熟睡しています。もう堂々としていようやないか。先輩ママによると、冷静さが安産の鍵らしい。

そんな中、父の誕生日が4月10日なので、 私が入院するまえにもうお祝いをしておこうという謎のイベントが開催される。お誕生会といっても、ただちょっとだけ豪勢な夕飯に、ケーキを食べるというだけの事です。ロウソクは無いけど、3人でハッピーバースデーの歌を歌う。父は66歳になったらしい、「嫌や、年は取りたくない、、、。」とボソボソつぶやいている。誕生日が嬉しいのは、17歳くらいまでだもんな。でも17歳に戻りたいかっていったら、全然戻りたくない。あんな悩み多き面倒くさい年齢になんか戻りたくない。
赤ちゃんが下に降りて来て、胸の辺りがすくような感じになり、少し楽になるという状態がわかってきた。今、割と楽です。便秘もなく、ご飯もおいしく食べています。夫は東京で、慣れない生活を頑張っているようです。

片付けの苦手な姉がスペインから帰ってくる前に、母は血眼になって大阪の家の片付けをしようとしている。誰もが片付けやすく掃除しやすい家にするために、今のうちに整理しておくつもりらしい。そんなことで、母が五日間ほど家を空けた。
かといって、臨月の私だけを三重の家に残す事に恐怖を感じたらしく、その間は父が三重の家にいた。私と父は私が小さい頃からよくケンカするので、二人だけで三重の家に居る事は父にとっても私にとっても母にとってもそれなりにストレスフルな事なのだ。
そんな父に産婦人科に連れて行ってもらう。ヒゲでメタボな父を産婦人科の待合室に待たせておくのが、なぜか妙に不安だ。その不安は的中し、父が産婦人科の掲示板の張り紙に反応し始めた。「おっぱい教室やて!!」と言って騒いでいる。なぜ私がよく父とケンカになるのか分かっていただけたと思う。
でもその後、父は「サンドウィッチの美味い喫茶店があんねん。」と言って私をその喫茶店に連れて行ってくれる。この人は、美味しい店をよく知っている。私や母の知らない所で、きっと色々美味しい場所を見つけては喜んでいるのだろう。

別の日は、おばあちゃんも連れてお好み焼き屋に連れて行ってくれた。大阪生まれ大阪育ちを誇りとしている父は、こういうときは張り切って焼いてくれる。鍋のときもけっこう張り切る。マジシャンなだけにショー的な要素の料理の時だけ張り切るのだ。私とおばあちゃんは、荒々しく器具を振り回す父をぼけーっと見ている。荒々しく振りかけていたコショウのフタが取れて、コショウが山のように焼きそばに投入された。辛い辛い焼きそばだった。
小さい頃、母が仕事や手術なんかで長期間家にいない時がたまにあった。私と姉は夜になるとビービー泣いた。父は川の字の真ん中になって、絵本ではなく、なんかよく分からない大人向けの本を私達に読み聞かせた。夕飯は、鍋しか思いつかなかったのか、毎晩鍋だった。そして朝にはそれがおじやになって出て来た。私と姉はひたすらに母の帰りを待っていたような気がする。
でも父は父なりに一生懸命色々とやってくれた。映画にもたくさん連れて行ってくれた。スキーの時はおんぶしてすべってくれた。そういえばそうだった。でもやはりこれからも私と父は多分ケンカするのだろう。

ほぼ放送禁止画像?というか、部屋が汚い。9ヶ月頃、「妊娠生活、つわりもなかったし、全然苦しい事なんてないじゃん。」と余裕をかましたまま私の妊娠生活は終わるもんだと思ってた。
しかしただ今10ヶ月。いつ産まれてもおかしくない状態の中、臨月の苦しみを知る、、、。本には9ヶ月が一番苦しいと書いてあったのに、私は今が一番苦しい。感覚としては、今海に私を投げ入れたら、沈む。というような感覚です。巨大な石を呑み込んだまま生きている気がする。こんなに重くなるなんて知らなんだ。夜に重みで何度も起きるし、足の付け根がつーんとするし、おしっこは近いし、なんかかゆいし、鼻血は出るし、ちょっと動くとゼーゼー言うし、まぶたも最近疲れて一日中半分くらいしか開いていない。春霞の中、ぼけーっとだるいまま一日が過ぎて行くのが悲しい。
自分のお腹のでかさは異常なんじゃないかと思って、先輩ママヨーコちゃんに己の腹の画像を送る。そしたら「ぎゃああああ!」というタイトルとともに「だいぶでかいよ」との返事がきた。やっぱりちょっとでかいようだ。
でも産婦人科に行くと、院長先生は「まだ気配なし!たくさん歩くんだよ〜!」とブッシュ大統領に似た顔をしてニコニコ言うのだった。歩くなんて無理。と鬱々とした気持ちになるけど、おばあちゃんちまで歩いて、一緒につくしを取ったりする。この重みを手放したとき、ドラゴンボールに出てくる「精神と時の部屋」から修行を終えて出て来た悟空のように私はパワーアップしていると信じたい。または養成ギプスをつけていた星ひゅうまのように。

マジシャンの父につられて、母も1年程前からマジックを始める、、、。発表会を前に、練習に励む母と、それを監督して激を飛ばす父。マジック用の上等なスーツを父に買ってもらい、上機嫌な母。姉から借りた、外国人が歌うシャレたCDをかけて、ステッキを宙に浮かせるパフォーマンスを猛練習中だ。
うちの両親は、目立つ事が好きなようだ。母はいつもきちんと髪を巻き、化粧を盛り、大きなサングラスをかけて、出勤していく。父は恰幅がよくてヒゲもわさわさと生えているので、遠くにいてもすぐに分かる。マジックの大会が近づくと、マジック用のペンギンスーツを出して来て、二人は誇らしげに出かけて行くのだった。
里帰りして、色々なことが相変わらずだとちょっと安心する。私は、派手な格好でマジックに出かけて行く両親を、ぼさーっとした顔で見送り、花束だらけになって騒ぎながらマジックから帰って来る両親を、朝と変わらないぼけーとした顔でまた出迎えるのだった。今日はどんな人が観にきてくれて、こんなにおかしいことがあったとか、会場が停電になっただとかを酔っぱらった母は楽しげに話す。親が元気なのは、なんとありがたい事かと最近よく思います。小学校の時は、ヒゲだらけの父親が父親参観に来るのを死ぬ程恐れていたけど、今なら思う、目立ちたがり屋で元気な親で良かったと。
妊娠しているとはいえ、化粧もせずに一日中家に潜んで母や父の帰りを待っていると、自分がおばあさんなのではないかという錯覚に陥る。自分は子どもに生き生きとした姿を見せられる母親になれるんだろうかと、生き生きしすぎている自分の母親を見てふと心配になる。これはマタニティブルーというやつかしら?

赤子はまだ誕生していないので、くまちゃんのぬいぐるみがモデルを務めます。
というか、、、世間の赤ちゃんと車をお持ちの親たちは、こんな大変な器具と日々付き合っておるんか。ママ友のひとみちゃんも、ヨーコちゃんも、何ら難しそうな顔一つせずに、涼しい顔して赤子をのせていたのは何だったのか?二人が「回転するやつがええよ。」と言っていたので、その名も「クルット」というエールベベのチャイルドシートを購入。
月曜日にチャイルドシートが届いたものの、見るからに複雑そうなその器具に触れる事を私はおそれておりました。しかし玄関にいつまでもそれを放置しておく事を家族が許す訳もなく、うすら寒い3月20日の春分の日、父と母、そして私の3人掛かりで傷だらけのプリウスへの設置を試みました。
こういうとき、主に活躍してくれるのは我が家の場合圧倒的に母です。いついかなる時も、頼りになるのは結局がんばりやの母です。飽きっぽくて疲れやすくて根性の無い私と父は、いつも途中で眠たーくなったり、ふらふらとどこかへ行ってしまう事を母は知っているので、もう最初から説明書は母が握りしめて我慢強く解説しながら設置に入りました。しかし、今回は私の赤子のチャイルドシートの事なので、あたりまえですが私が一番頑張らなければいけない訳です。そういうことなので私も、大嫌いな取り扱い説明書をにらみつけながら、「自分は真剣である」という事を母にアピールしながら作業に参加しました。
3人の大人が、狭い車内であーでもないこーでもないとひしめきあって、引っ張ってみたりつねってみたり、ボタンを押してみたりして、多分、どうにか設置できました。もう3人の大人は疲れ果てて髪も乱れ、言葉数も少なく、最終的に販売店に行って確認だけしてもらおうという結論に至りました。
チャイルドシートという、この極めて複雑な器具を、世間は受け入れている。私はそのことに静かに驚いていました。ひとむかし前のシートベルトさえ義務ではなかった時代、母はまだちんちくりんの私と姉を助手席につめこみ、急ブレーキの時は手で押さえつけていたとのことでした。小さかった私と姉を喜ばせるために、坂道を大ジャンプしてわざと車を飛び跳ねさせていた母の隣で、私と姉はいつも「ジェットコースターの坂道」といって大喜びしていたのを覚えています。なんと大らかな時代であったことよ。
それが今やがんじがらめの拘束シートに、退院時からしばりつけなければいけないとは、すごい時代になったものです。でもこうなったのには、何人もの子どもの命が失われた結果であって、その悲しみに包まれた大人達が出した結論なのだなあと、何人もの親の愛を感じずにはおれません。無傷でむくむくと太り、いつのまにか三十路になった私と姉は、何も知らずただラッキーだっただけのこと。
「今日も死なないでほしい」と願って母はチャイルドシートに子を縛るのだ。