
2011年に「ポスターを描く展vol2」に参加させていただいたのですが、その後もポスター展は続き、vol4にまで到達いたしました。この企画は、とても面白いのです。デザイナーとイラストレーターがコンビを組んで、世界にたった一つのポスターを作ろうという企画なんですが、中身は架空の店を宣伝するものから実際の店舗を宣伝したり、本を宣伝したり、未来をテーマにポスターを作ったり、何をポスターにしてもいいのです。
だからこそ、表現は無限大。オリジナルグッズを作ったり、難しい印刷に挑戦したり、箔を貼ったりダンボールに印刷したり。デザイナーとイラストレーターは電話やメールを何往復もして、時には一緒に買い物にでかけ、深夜まで語り明かし、それはそれは密な時間をともに過ごして世界にたった一つのポスターを作り出すのです。毎回、「挑戦してみよう。おもしろいことしてみよう。」という意気込みが会場全体から溢れ出ていて、一つ一つのポスターから、物語が滲み出ていました。
私は、デザイナーの星野さんと小学館の「小学1年生」をテーマにポスターを作らせていただきました。当時私は三重に暮らしていて、星野さんは東京にいて、メールや電話を毎日していました。あんなにひとつのことについて考えたことってなかったなあ。私にとって、とても大事な出来事でした。星野さんとはその後も親しくさせていただき、良い出会いも運んで来てくれました。

そして、このたび、ポスターを描く展のvol1からvol4までが一冊にまとまった本が出来上がり、青山のギャラリーDAZZLEさんにて「ポスターを描く展vol4」が開催されていて、同時にこの本が販売されていました。ああ、私とした事がブログに書くのが遅すぎて会期が終了してしまいましたが、、、。ああ〜、しまった。私は会期終了のギリギリの11月2日に、息子を背負って江戸川区から電車を乗り継ぎやっとの想いで青山にまで辿り着き、この本を手に入れました。息子も私も汗びっしょり。
年を追うごとに、ポスター展は進化していったようで、もはやポスターの枠にとどまらず、立体作品にまでなったりしていました。会場の写真を余裕がなくて撮れずに申し訳ない。あんなに作品に対する愛情が溢れ出している会場は知らないです。
私はイラストレーターという立場ですが、なんというか、デザイナーさんの凄さを知った展覧会でもありました。「デザイン」ってすごいんだな。と。デザインこそ無限大なのだと、知った展覧会でした。今年で、多分ポスターを描く展は一段落でしょうが、このような一冊の本にまとめてくださって本当に感謝しています。この本を開くたびに、私は2011年の秋を鮮やかに思い出すでしょう。明け方に、星野さんと電話で泣きそうになりながらしゃべったこと。小学生の気持ちを思い出そうとして、アルバムをめくったこと。好きな本や音楽について何度もメールした事。たくさんのデザイナーさんやイラストレーターさんと仲良くなって、一緒に飲んで駅まで歩いた事。私が三重に帰る時間になって、みんなと熱いハグや握手を交わした事。絵を描いていてよかったと心から思った。

関東に住み始めてから、俄然原発やら放射線に関する関心が高まりまして、図書館で毎週のように原発に関する本を借りては読んでいます。写真の本は「くまもり協会」という森林とクマを守ろうという団体に入っている姉が送ってくれた「ぜんぶなくす。原発ゼロ世界へ」という小出裕章さんが書かれたものです。これはとても分かりやすく書かれているので、子どもでも読みやすいかと思われます。これは圧倒的に、もう完全に、何が何でも今すぐ原発をなくせという方向です。
他にも、専門家8人が食品の選び方について述べた本やら放射線から子どもの身をどう守るかといった本など、読んだ。何冊かを読んで「野菜は洗ったら大丈夫」とか「洗ってもダメ」とか魚は水揚げされた場所ではなくて獲れた場所で判断するとか、放射線で汚れた野菜よりも、日々口にする例えば焦げた食パンだとかタバコだとかそういうものの方が発がん性は高いから、冷静になれよとか、汚染された食品はすべて妊婦や授乳中の人を除く成人した人間が食べるべきだとか。雨に当たるなとか。実はチェルノブイリより断然ひどい状況だとか。放射能を気にするストレスが一番実は体に悪いとか。色々読んでみて、私は、原発はとにかくやめてほしいと強く願います。
世間のテンポから遅れ過ぎてるかもしれんけど、今更声を大にして言いたい!頼む!!!もうやめよう!!!というか、一体誰が原発に賛成なのだろうか?と思ってこれまたネットでも見てみたが、賛成の人は誰もおらんのです。どうやら。賛成ではなくて「やむをえない」って思ってる人がいるってことらしいです。本当に本当に本当にやむを得ないのか?原発をやめた瞬間原始時代に戻るっていうのか?やむを得ないというのは、人々の未来や命を犠牲にしてでもやむを得ないってことがあるのか。誰の為のやむを得ないなのか。未来はどうなるのか?「自分が死ぬまでは大丈夫だからいいや」って思っていたとしたらますます子どもなんか産めやしない。私は子どもを産んでしまった。産んでしまった瞬間、未来が、私にとっては非常に重要になった。息子が60歳の時、地球上のどこででも外で散歩ができる状況であってほしい。摘んだ花を家の花瓶にさせる状況であってほしい。
原発をやめた国は滅んでいないのに、日本でそれができないということがあり得るのか?GDP世界第3位でなくなってもいい。原発がない国の方が私はいい。世界第3位でも自殺率が高い国じゃないほうがいい。話がそれてきたけど、何かがおかしい。おかしいことだらけだから、それが普通になってきている。どうして毎日飢えてる人がいるのに、同時に大量の食品が捨てられているのか?知る事から始めなければいけない。私は食品大量廃棄のことをよく知らなかったから、スーパーでは賞味期限が新しい物から買っていたけど、それをやめた。賞味期限の迫っているものから買うようにした。みんながそれを心がければ、ちょっとでも減るのかな?少しでもゆがみが治るのかな?知る事から始めなければいけないと思っているけど、果たして私が得ている情報はちゃんと正しいのかな?
私の力なんて本当に小さすぎて見えない。レジ袋いりませんって言ってるのに、裸のタマネギを誠意だと言わんばかりに袋にいれてくるんだから。自分はちゃんとやってるつもりだと、思っているのは自分だけで、まだまだ何もできていないのです。でもまず、知る事から始めなければならない。世界が少しでもいい方向に進む為にはどうしたらいいのか。

同じマンション内には、ものすごくたくさん子どもが住んでいる。というか、私の住んでいるマンションは社宅なので、住んでいる人は全員夫の会社の人々とその家族なのですが。いや、うちのマンションだけじゃない。江戸川区はとにかく子どもだらけである。とても嬉しい。朝からたくさんの子どもの声がする。夕方からも子どもの声がする。子どもの声ってそれだけでなんだか希望を感じてしまう。平和な日常が続いているんだなと思う。
そして、その同じ社宅内のママさんたちがだいたい月に一度くらいの割合で女子会を開いている。新入りの私でしたが、ママさんたちは快く声をかけてくださったので、私は息子を抱いていそいそとお隣や上の階や下の階に部屋着のまま出かけて行く。近いってスバラシイ。料理を一品持ち寄って、それぞれの子どもももちろん一緒になので、相当賑やか。
ほとんどの子どもさんが3歳なので、私の息子はまだ遊びには参加できないけど、私の膝の上でママさん達の顔をじーっと観察している。そしてたまにやってきて頭をなでていく他のお子さん達に恐れおののいている。私が、子育てで不安に思った事や疑問に思った事をたくさん質問すると、何でも答えてくれる先輩ママ達。「うちの子の耳あかがすごいんですけど。」「ゆりさんっていう耳鼻科が駅の方にある。」「コンセントキャップは必要か?」「子どもによるから、もう少し大きくなって様子をみるといい。」「ベビーサークルは必要か?」「百均に売ってる突っ張り棒を入り口につけておくだけで子どもは入って来れない。」などなど、答えられない物はない。という感じで非常に助かります。
そして、自分の子どもと人の子どもを全く区別しないで、すべての子どもにきちんと世話をやくというか、みんなに目を配っていることがすごいのだ。そしてそのママ達の目や耳は、子どもの異変をものすごい早さと正確さでもってキャッチするために進化しているのだった。私が何の変化にも気付いていないのに突然3人のママが「だめよ!順番でしょ!」といって声を張り上げたので私はびっくりしてしまった。子どもの方を見ると、小さなもめ事が起こっていた。さっきまでママ達だけで会話を楽しんでいたのに、ちゃんと子どもの方にまで神経が行き届いているのだった。もう全員エスパーに見えた。私がご飯を食べる瞬間「こうちゃん抱っこさせて。」といってさりげなく私の息子を抱っこしてくれたり、料理を取り分けてくれたり、なんだかなんだか、女性ってすごいなあと思った。細やかってこういうこと言うんだろうな。このエスパー並みの能力は確かに社会に必要だと強く思った。女性が働きやすい社会になることが、多分日本を救うんだろうな。
子育ては大変で苦労の連続だろうが、母達はものすごい早さで苦労を忘れて行く。「今まだうちの子3歳だけど、細かいこともう忘れちゃったよ〜。オムツっていつからパンツタイプに変えたかなんてもう忘れたよ〜。」と笑って言っていた。下痢をまきちらかしたことも、熱を出して夜中に病院へ駆け込んだことも、母達は日々色んな出来事が降り掛かり過ぎて苦労も一緒にどうやら忘れて行くらしい。
産まれて3ヶ月の女の赤ちゃんとお母さんが後からやってきた。ついこのあいだまでうちの息子も3ヶ月だったのに、その3ヶ月の女の子のあまりの小ささと儚さに私は驚いてしまった。私も、どうやら3ヶ月前のことなんて忘れてしまったようだ。あれほど痛かった授乳の際のチクビの痛みも、もうどんなのだったか忘れた。今では息子はチューインガムのように私のチクビをのばしまくって引っ張っているが、何も感じない。すんげー伸びている自分のチクビにただ驚いている。

息子が誕生してもうすぐ6ヶ月。ベビーカーで私の歩ける範囲でのお出かけばかりで、未だ息子を連れて公共交通機関を利用した事がなかった。ということで、初めて息子を連れて、夫と3人で最寄りのビッグシティ錦糸町へ行ってみた。
なかなか使いこなせなかっただっこヒモを初めて長時間使用しての、初めてのバス、初めての電車。一人だったらなんでもないことが、赤ちゃんを連れてだと緊張が途切れることがない。大泣きしやしないか、うんこをぶっ放すんじゃないか、暴れだしやしないか、ミルクを突然吐き出したりしないか?そのような不安を持ちながらも、私は久しぶりに街に出る事の嬉しさでいっぱい。でも夫がいなかったら、多分できない。ありがたや〜と思いながら、バスも電車も息子は声一つ発する事なく大人しくて一安心。借りて来たネコだわ、まるで!
街へ行って何をしたいか、というのは特になかったものの、駅のすぐ側に大きな「アカチャンホンポ」があるのでそこへ行ってみた。ここへ来たら、赤子に関する物がすべてある。私はそのあまりの品揃えに開いた口がふさがらない。目は見開かれたままで乾燥してきた。興奮がおさまらない。しかし、ふと横を見るともう明らかに夫が退屈しているのがわかったので、「いいよ、好きな場所へいってきてよ」といって、夫を解放。夫は嬉しそうにどこかへ飛んできました。
あ〜あ、東京の赤ちゃんはこんなにも多くの品物の中から選び放題なのか〜すげ〜なあ。私が三重で「何でもあるぞ!」と思っていた「アカチャンデパート水谷」なんて、全然足下にも及ばないことが分かった。ベビーカー売り場だけで、水谷デパートがすっぽり入りそう。今はネットで全部手に入るというけど、実際に売り場で見るのとはやっぱり全然違うもの。
でも物が豊富すぎて「こんなのいらなくね?」というものまで結構売ってる。ベビーカーにつける装飾品なんていらなくね?オムツ専用ゴミ箱なんていらなくね?とか息子を引き連れながら商品に静かに突っ込みをいれて店内をくまなく回った。で、滅多に来れないはずなのに、欲しい物が何もないことに気付いた。そりゃ、あればいいけどねってものはいっぱいあるけど、それを買おうにもレジのあまりの長蛇の列にやる気をなくし、、、。息子もモゾモゾしだしたので、一発チチでもやるべかと授乳ルームへいってみると、大混雑!!こんなに広い授乳室なのに並んでる、、、。恐るべしトウキョウ。
どうにかチチもやり、夫が本屋から舞い戻って来たので昼ご飯を食べに最上階へ。したらどこもかしこも長蛇の列!恐るべしトウキョウ。三重のデパートなんて物産展のときだけだべよ、混雑するの。どこも混雑する中、我々は「焼きたてパン食べ放題」付きの洋食屋をチョイス。食欲暴走列車と化して皿をもって何往復もする妻を、夫はおののきながら見ていた。おっぱいを製造している今だけなんだよ、私が太らないのは。今しかこんなに欲望を大解放して食べられないんだもの。いつ食べるの、今でしょ状態なんだよ。食い終わったらもう15時だった。
帰路についた。結局、私の食欲を満たす為だけのお出かけであった。色々心配していた息子の事は、目に入らないくらいただ食べていた母だった。でも一回外出すると自信がつくのか、今度は息子と二人でも出かけてみたいなと思った。

私には3人おばあちゃんが居ました。一人は私の母のお母さんで、まだまだ元気で三重の畑を耕しています。二人目は2010年に亡くなった、私の父の育ての母である大阪のおばあちゃんです。このおばあちゃんは、正式には父のお父さんの兄弟で、要は父のおばさんにあたります。父は物心ついた時からずっとこのおばさんに育てられていました。私も姉も、ずっと大阪のおばあちゃんを自分たちのおばあちゃんだと思って生きて来ました。彼女は私達の父をそれはそれは可愛がって育てて来ましたし、私達もとても可愛がられました。今でも彼女は私達のおばあちゃんであることに変わりはありません。
そして、3人目のおばあちゃんが先日亡くなりました。彼女は川越の老人ホームに住んでいて、私達家族は急いで川越に駆けつけました。父の本当のお母さんです。産みの母です。父を産んで間もなく、彼女は様々な理由で大阪の家におれなくなり、出て行ってしまったのです。家を出てから、彼女は非常に苦労して、東京で一人で掃除婦などをしてどうにか暮らしていたそうです。そしてなんと50代で再婚、その後は再婚した旦那さんととても幸せに暮らしていたそうですが、旦那さんはガンで亡くなりおばあちゃんも認知症が進み、老人ホームへ入居して暮らしていました。
私が大学生の時ぐらいから、川越のおばあちゃんは父と連絡をとりたがっていたようで、家にも手紙が届いたりしていたようです。父は色々な複雑な想いから、すぐに連絡を取るというようなことはなかったのですが、10年前初めて会う事にしたのです。私も一緒に会いに行きました。まだ彼女が老人ホームにお世話になる前です。川越の小さな住宅街に彼女は一人で住んでいました。玄関を開けて出て来たのは、笑顔が朗らかなとてもとても明るいおばあさんでした。本当に明るい人で、ずっと笑っているような人でした。父の事を「じゅんちゃん!」と呼んでそれはそれは嬉しそうでした。「私が知っているじゅんちゃんは、赤ちゃんですっごくかわいかったの!今はおひげの生えたおじさんだね!あはははは。」長い東京生活で、きれいな標準語になっていたおばあちゃんは、そういってまた朗らかに笑っていました。
私も母も姉も、それから多分父も、あまりに朗らかで明るいこのおばあちゃんにただ驚き、とても好きになりました。それからは年に一度は川越に会いに行っていました。でもおばあちゃんはどんどん認知症が進んでしまって、次第に私達のことが分からなくなって行きました。7月に転倒して骨折してからは、寝たきりになって食べ物もあまり食べられなくなり、10月の4日に亡くなりました。9月に父と母はどうにかしておばあちゃんに会いにいったようですが、そのときが最後でした。

おばあちゃんはキリスト教で、告別式ではおばあちゃんのことをよく知る人々が前に出ておばあちゃんとの思い出を語ってくれました。私達の知らないおばあちゃんの話で、私は彼女の89年間の生涯の事を思い涙が出て来ました。苦労はあったでしょうが、幸せだったはずです。どのお友達も「笑顔が本当に素晴らしい、おしゃれで朗らかで大胆な人だった。」と口を揃えて言いました。
最後に父が前に出て、喪主としての挨拶をしました。私は父があんなに泣くのを初めて見ました。大阪のおばあちゃんが亡くなったときよりも、父は多くの涙を見せました。私や母や姉には計り知れない程の、色々な想いがあっただろうと思います。本当の母の顔も知らずに存在さえ長く知らずに生きて来た父です。それでも最後にこうやって喪主として立てたことは、とても良かったと思います。
棺の中のおばあちゃんを見て、この面長の顔と鼻筋が確かに父の母親であることを静かに語っていました。苦労を全く感じさせない程に笑顔を絶やさず朗らかだったおばあちゃん。また会いましょう。その時はもっとたくさんあなたの話を聞かせてほしい。