私には3人おばあちゃんが居ました。一人は私の母のお母さんで、まだまだ元気で三重の畑を耕しています。二人目は2010年に亡くなった、私の父の育ての母である大阪のおばあちゃんです。このおばあちゃんは、正式には父のお父さんの兄弟で、要は父のおばさんにあたります。父は物心ついた時からずっとこのおばさんに育てられていました。私も姉も、ずっと大阪のおばあちゃんを自分たちのおばあちゃんだと思って生きて来ました。彼女は私達の父をそれはそれは可愛がって育てて来ましたし、私達もとても可愛がられました。今でも彼女は私達のおばあちゃんであることに変わりはありません。
そして、3人目のおばあちゃんが先日亡くなりました。彼女は川越の老人ホームに住んでいて、私達家族は急いで川越に駆けつけました。父の本当のお母さんです。産みの母です。父を産んで間もなく、彼女は様々な理由で大阪の家におれなくなり、出て行ってしまったのです。家を出てから、彼女は非常に苦労して、東京で一人で掃除婦などをしてどうにか暮らしていたそうです。そしてなんと50代で再婚、その後は再婚した旦那さんととても幸せに暮らしていたそうですが、旦那さんはガンで亡くなりおばあちゃんも認知症が進み、老人ホームへ入居して暮らしていました。
私が大学生の時ぐらいから、川越のおばあちゃんは父と連絡をとりたがっていたようで、家にも手紙が届いたりしていたようです。父は色々な複雑な想いから、すぐに連絡を取るというようなことはなかったのですが、10年前初めて会う事にしたのです。私も一緒に会いに行きました。まだ彼女が老人ホームにお世話になる前です。川越の小さな住宅街に彼女は一人で住んでいました。玄関を開けて出て来たのは、笑顔が朗らかなとてもとても明るいおばあさんでした。本当に明るい人で、ずっと笑っているような人でした。父の事を「じゅんちゃん!」と呼んでそれはそれは嬉しそうでした。「私が知っているじゅんちゃんは、赤ちゃんですっごくかわいかったの!今はおひげの生えたおじさんだね!あはははは。」長い東京生活で、きれいな標準語になっていたおばあちゃんは、そういってまた朗らかに笑っていました。
私も母も姉も、それから多分父も、あまりに朗らかで明るいこのおばあちゃんにただ驚き、とても好きになりました。それからは年に一度は川越に会いに行っていました。でもおばあちゃんはどんどん認知症が進んでしまって、次第に私達のことが分からなくなって行きました。7月に転倒して骨折してからは、寝たきりになって食べ物もあまり食べられなくなり、10月の4日に亡くなりました。9月に父と母はどうにかしておばあちゃんに会いにいったようですが、そのときが最後でした。
おばあちゃんはキリスト教で、告別式ではおばあちゃんのことをよく知る人々が前に出ておばあちゃんとの思い出を語ってくれました。私達の知らないおばあちゃんの話で、私は彼女の89年間の生涯の事を思い涙が出て来ました。苦労はあったでしょうが、幸せだったはずです。どのお友達も「笑顔が本当に素晴らしい、おしゃれで朗らかで大胆な人だった。」と口を揃えて言いました。
最後に父が前に出て、喪主としての挨拶をしました。私は父があんなに泣くのを初めて見ました。大阪のおばあちゃんが亡くなったときよりも、父は多くの涙を見せました。私や母や姉には計り知れない程の、色々な想いがあっただろうと思います。本当の母の顔も知らずに存在さえ長く知らずに生きて来た父です。それでも最後にこうやって喪主として立てたことは、とても良かったと思います。
棺の中のおばあちゃんを見て、この面長の顔と鼻筋が確かに父の母親であることを静かに語っていました。苦労を全く感じさせない程に笑顔を絶やさず朗らかだったおばあちゃん。また会いましょう。その時はもっとたくさんあなたの話を聞かせてほしい。