
どうやー!この大げさなメカ。黒だから、なんか物々しくなってしまった。ついに子どもを乗せて走れる電動自転車を買いました。夫のご両親から初節句お祝いをいただいたので、すごく高くて迷っていた電動自転車を購入させていただきました。お父さん、お母さん、ありがとうございます!
私の住んでいる江戸川区は、子どもがめちゃくちゃたくさん住んでいます。子どもの国のようです。なので、この子どもを乗せる自転車がものすんごい多い。一家に一台標準装備?というくらいにみんなこれに乗っている。男の人も、おじいちゃんやおばあちゃんも。それを見ているうちに「いつかは私も」的に憧れるようになり、このたびめでたく購入いたしました。ちょうどマンションの目の前にあさひ自転車屋さんがあり、日曜日昼寝をしていた夫を叩き起こして「自転車!自転車!」と叫んで一緒に買いに行った。
まずは試乗ということで、自転車屋さんの駐車場で乗ってみました。したら、私があまりにもふらついていたので、お店の方が「奥さんはあまり乗られた事がないのですね。」的な事を夫に言っていたらしいが、私は中高6年間も自転車通学だったはずなのだ。ただし、小5まで補助輪をつけて乗っていて、立ちこぎに至ってはついにできなかったという筋金入りの自転車ヘタクソ女です。6年間自転車で山道を通っていたが、その間立ってこいだ事は一度も無く、なぜか6年間ふらついていた。おかげで太ももだけが異常に発達していた文芸部と美術部の青春時代。
そんな女が赤子を自転車に乗せようなんて思うなよと、いや、だからせめて電動でいこうぜとなったのですよ。春はもともと自転車がよく売れるし、おまけに増税前で注文が殺到していて、なかなか納品が遅いということだったのですが、私はそんなに急いでいたわけでもないのに「ほんならもうこれをくれ。」といって、試乗用の展示品を買う事にした。せっかちな関西人です。そのせいで、色が選べなかった。せっかちな自分のせいです。チビな私が、こんな戦車みたいな自転車で息子を乗せるのかと思うと、なんか笑えてくる。
そんで、ある日。息子を乗せて、傾斜も風もきつい、荒川にかかったでっかい橋を、息子を乗せて走ってみた。電動凄い!!!坂を坂と感じさせない。スバラシイ。ちょっと私がペダルに力を込めると、誰かが後ろから「よいしょ!」と押し上げてくれているみたいにぐーんとペダルが動き出す。これなら立ちこぎができない私でも、この橋を越えられる。
そう思って嬉しかったけど、よく考えたら、この橋を越えなきゃいけない事なんて生活の中で特にない。まあ、いいや。色々出かけてみよう。

「私、農業すんねん。」スペインから帰った来た姉はそう言い放ち、誰もが「うそつけ」と思って1年が経ちました。「うそつけ」と思っていても、家族は皆見守っていましたし、時には「あいつ〜!ほんまにやる気あんのんか〜!」と腹を立てたりしながらも、やはり色々みんな助けたり、手出ししまくったりして、ついに姉は、稲を植えた。
稲を植えてるこの機械も、姉は貯金をはたいてほとんど揃えた。農機具を大金出して契約している時、「まじか。」とみんないよいよ思った。「まじや、あいつ。」と。周りからの資金援助は無い。資金援助したらやる気を無くすんやないかと思ったからだが、姉はしゃあしゃあとこうぬかした。「誰かにお金を出してもらったら、その人に悪いと思って絶対やめやんとこと思うけどな、自分で全部出したらある意味、自分の勝手やからいつでも止めれてしまうねん。」何言うか。もうみんな巻き込まれまくってるで、止めるなよ。
ちなみに土地はすべて三重のおばあちゃんのものです。姉は旦那さんとともに大阪在住ですので、週の半分しか三重には来れませんが、三重に来た時は早朝から日暮れまで、私の中学時代のジャージをはいて泥だらけでなんかしています。農作業から帰ってくると、いつも湿ったアンパンマンみたいな顔をしていますが、嬉しそうです。
機械を色々世話してくれたヤンマー社の竹内さんは、もうボランティアにも近い形で、色々助けてくれました。いつも姉の田んぼを見に来てくれます。そして、親戚のおじちゃんからは、他にも農機具をただで譲ってもらい、ご近所の方々は「若いねーやんがなんか農業するらしい。」と言って、色々気にして見に来ては世話をしてくれるようです。若いという事は、それだけで多いに影響力がある。姉の場合、今流行の「かわいすぎる◯◯」とかにはならんけど、素朴でなんかよさそうなねーやんが、一生懸命泥臭く働いているという感じです。
この田んぼに水をいれる時も、それはそれはもめて、大変で、苦労したようです。毎日家族の会話では「やっぱり水はいってなかったって。」「あの土地の高低差があかんのとちゃうか。」「水をくみあげるポンプを買うしかないやろう。」と、みんなが「水、水」と水の話ばかりしていました。84才のばーちゃんは姉から「ばあちゃんは手を出さんといてよ!私がみんなするんやでな!」と息巻いていましたが、そのとき姉は大阪に居たので、ばーちゃんはいてもたってもおれずに、1人で岩を持ち上げて水をせき止めたりする有様。どう考えても若返ったな。
ヤンマーの竹内さん曰く「もう、道楽やと思ってやってくださいよ。農業なんて。利益がでると思ってやらんといてください。」と念を押していっていたほどに、難しい事です。誰も利益がでるなんて思っていませんが、姉は「どうにかしたい。」らしいですから、見守るしかないでしょう。この先、どうなるのか、誰にもわからない。けれど、新しいことの何も起こらない状態でなく、何か新しいことをやってやろうという人が家族にいる、ただそれだけのことが、家族全体、地域全体にぼわーんとなんかいい影響があるような気はしています。まあ、がんばろうや。

私の名前は30年間「瀬島志保子」でした。あまりない名字なので、好きでした。結婚して、旦那さんの名字になりました。旦那さんの名字でいたのは2年間ほどでした。この名字も、よく人からかわいらしいねと褒められていたので好きな名字でした。そして、3月にまた名字が変わりました。旦那さん、息子、私、全員名字が変わりました。新しい名字は、母の実家の名字です。私達は、祖母の養子にはいった形です。これからは、何事も無ければ一生この名字で暮らすことになります。
私の母は3人姉妹で、男兄弟が1人も居ませんでした。田舎は、家を継ぐということに何より重きをおいており、子どもの居ない夫婦は養子をもらったり、娘ばかりの家はお婿さんをもらったりして、相当な努力をしてずっと家を継いできたのでした。母の実家も、祖母自体が養女ですし、祖父はお婿さんに来ています、その夫婦には女の子しか産まれず、3人の姉妹は「誰が跡を継ぐのか」「あんたが男の子だったらよかったのに」といわれて育ち、それなりに3人は苦しんできたのでした。「どうして私は男ではないのだろう?」私の母もそれは苦しんで、思春期には円形脱毛症になったりと色々な葛藤を抱えて今まで生きて来たのでした。
その3人娘達は、それぞれ長男や一人っ子に嫁ぐことになり、とてもとてもお婿さんにきてほしいとは言えない家ばかりでした。3人娘はそれぞれに苦しみを抱えつつも、好きになった人に嫁ぎました。私の父は、そんな母の苦しみを理解して、家を母の実家のすぐ近くに建てました。継ぐ事はできないけれど、せめて近くに住みますと。私の三重の実家は、そんなことで三重の田舎に建っています。私は田舎に産まれて、田舎に育ち、とても幸せでした。祖母の家も、祖父母も大好きでした。
だから、母から、震える声で「おばあちゃんの家を継ぐ事はできないだろうか?」と言われたとき、びっくりしたけれど、いいことのほうがずっと多いと思いました。旦那さんも、旦那さんのご両親もこんな複雑なお願いに対して「二人が幸せであるなら、名前はどんな形でも構わない。」と言ってくださり、快く受け入れてくださいました。とても感謝しています。
84才のおばあちゃんは、「人生の終盤にこんなに嬉しい事が待っているとは想いもしなかった。」と言って、以前より元気に若々しくなりました。まだまだ長生きしそうです。そうして、5月3日、三重の田舎の料理屋で「お披露目会」をひらきました。写真は、その会場で眠ってしまった息子です。(要は良い写真を撮り忘れたんです)自治会長さんやら、祖母の家の行方を心配していた親戚の方々、総勢20名程が集まって「跡継ぎできたぞおめでとう」を祝いました。夫は、その場で「はじめまして。どうぞよろしく。」のスピーチを立派に果たし、親戚の方々にお酒をついでまわり、本当にがんばってくれました。社交の苦手な夫にしたら、大変な事だったと思います。
母はあのとき「清水の舞台から飛び降りるつもりで、あんたに言いだしてよかった。」と言っています。3人姉妹を長年苦しめていた跡継ぎ問題にピリオドが打たれました。私達夫婦が、私達の子どもが、この先どのような人生を辿るのかまだ何もわかりません。家ってなんだ、なんて古い考えなんだと疑問に思う人もたくさんいるでしょう。とりあえず、今私は「この名字を名乗る事で、幸せになる人の方がずっと多い。」という理由で名字が変わったに過ぎません。
瀬島志保子という名前は、これからもイラストレーターとして持ち続けるし、旦那さんの名字の名残も、色んな場所で私は持ち続けたい。3つの名前に、それぞれ愛着を持ち続けて生きて行きたいと思います。

息子がウイルス性の胃腸炎だとは知らずに、うんこもゲロも全身に浴びまくって無防備だった私に、ついにノロリーナが上陸。お腹がぺこぺこで母とうきうきしながら夕ご飯の支度をしていた夕方、お皿に盛りつけていたお刺身が、さっきまであんなに美味しそうだったのに、いつの間にか見るのも嫌になってきていたのです。
「やばい、、、。伝染ったわ。私もあかん。」今までけっこうな数の食中毒に合って来たある種百戦錬磨の私、この感覚は間違いない。せっかくの料理を目の前に、私はよろよろとソファに倒れ込んだのです。母は、ショックでだまったまま。息子は、ソファで死んだようになった私の腹の上でごろごろしていた。そうこうしている間に、ものすごい吐き気到来。私は冷静に洗面器をひっつかんで、床にふせっていました。「おええええええ!!!!」よだれが止まらないし、涙も止まらない。吐くときってなぜ涙も出るんでしょう。さっき新幹線で食べたおにぎりが変わり果てた姿で登場。栄養になることのなかった可哀相なおにぎり。母はまさに修羅場を迎えている私の背中を見て、絶句するばかり。母が背中をさすりに私に近づこうとしていたので「こやんといて!!うつるで!!」とよだれを垂らして叫ぶ私。自分がノロに感染したという事よりも、ウイルスを乗せて両親や姉夫婦のいる大阪に来てしまったことがショックでした。うつってしまったらどうしよう!私が感染したということは、同じく汚物処理をした夫も、、、。
私はその後、4回吐き、5回下痢をし、発熱し水分もとれず床にふせっていました。苦しがってアイスノンを要求した私に、姉が巨大でがっちがちのアイスノンをごとっと頭に置いて行ったことだけを覚えています。短時間で急激に体調が悪くなった私は、回復も急速でした。朝になると、お腹も減って、水分もがぶがぶ取れるようになっていました。危機は脱した。そして、私が回復するのとほぼ同じ頃、東京で1人で過ごしていた夫に、やはりノロリーナが上陸していたのでした。まさに、汚物処理をした順番で、見事に感染しました。
夫は吐く事はなく、下痢と関節の痛みやだるさで3日程苦しんだそうです。私のように急激に全部出したわけではなかったので、それだけ長引いたようでした。幸い、大阪に居る家族には誰一人感染する事無くみんな元気だったので良かったです。今回の事で、自分の無防備さと無知に対して多いに反省しました。そして、息子も夫も私も大事には至らず、今日も元気でご飯が美味しく感じられて、良かったです。

写真は、夫が息子に買って来てくれた誕生日プレゼント。むか〜しからよくある、あれです。けたたましく吠える子犬のおもちゃ。なかなか古風なプレゼントを、、、。おそらく、反応が見たかったのでしょうね。息子はのけぞって逃げていきました。「オレのプレゼントが気に入らないのかなあ、、。」と夫。そんなことないさ。
そんな平和な誕生日も過ぎたある日。朝いつものように機嫌良く起きた息子。車のおもちゃで楽しそうに遊んでいた次の瞬間、「おええええええ!」と突如苦しそうに嗚咽を漏らしたのです。昨夜食べたアボガドの小さなカケラと、胃液を少々出して、そのあと何事もなかったようにまた遊び始めました。「?なんだったのか?」少しの不安がよぎった物の、以前機嫌は良さそうだったので、特に対策もせず時間が過ぎて行きましたが、しばらくするとまたもや「おええええ!」と嗚咽をもらしてよだれを垂れ流す息子。でも、嗚咽を繰り返すわりに、すぐに立ち直りずーっと機嫌の良い強靭な息子。私はどうしたものか分からずに、嗚咽をその後も何度かもらす度に背中をさすることくらいしかできませんでした。
しかもこの日は麻疹の予防接種の日だったのです。とにかく、せっかくなかなか取れない小児科の予約を取り付けてあったので、診せながら判断をあおごうと決めました。ごったがえす待合室で待つ事40分、やっと番号を呼ばれて診察室へ。このときもずっと機嫌の良い息子。優しい女性の先生は、「ウィルス性の胃腸炎かもしれないけど、機嫌がこれだけいいし、今は麻疹も流行ってるから予防接種しましょう。」ということで予防接種をしてもらい、家に帰りました。
その夜。息子下痢を二回する。ここまできても、私は「うつる」ことはつゆとも考えず、無防備に息子の下痢やゲロを浴び続けていました。あほでした。ウィルス性とは、つまり、うつるってことです。おそらく、ノロ?なぜ全くうつることを考えなかったのかというと、ウイルス性胃腸炎は4月や5月は最も流行らない季節だったからです。小児科の先生も特に対策も言ってなかったし、すべてが「かもしれない」でした。しかも、苦しみのたうちまわると聞いていたノロだったので、ずっと機嫌の良い息子を見て、軽い食中毒だと考えていました。そして、深夜3時、息子ついに大規模なゲロを発射。私もゲロまみれに。夫も夜中に手伝って、せっせとゲロの始末をしました。やはり息子はすっきりした顔をして、少しはしゃいだ後寝ました。その後、私はゲロにまみれたシーツや服を洗い続けました。
次の日、、、。私と息子は、GWを大阪と三重で過ごすべく旅立つ予定でした。行くかどうか迷いましたが、息子はすっかり機嫌も良く、大阪での予定も色々あったので出発したのです。新幹線では息子はずっと寝ていて、苦労せずに到着しました。胸をなでおろし、大阪で母と一緒に夕飯の支度をしていたのですが、、、、。ついにノロの魔の手が私にしのびよってきたのでした。