ShihoSeji Blog

イラストレーター瀬島志保子のブログ
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都市へ赴く。

まだ身軽なうちに、色々出かけたほうがいいのかしら?と思って、今日は一人で大都市名古屋へ。最近は近隣の徒歩圏内ですべてを済ませていたので、私にとってはなかなかの覚悟のいることです。

大きな本屋へ行って、プリンターのインクを買って、マタニティ用品を見て、なんか美味しいもん買って!と夢は膨らんでいました。が、もう家から駅に行くまでで軽く疲労感を覚える。マタニティマークを振りかざして電車に乗るも、立つ。いや、全くいいんですけどね。座りたいなんて思ってませんよ、まさかそんな甘い事考えてませんったら。

名古屋に着いてすぐにビックカメラへプリンタインクを買いに行く。ビックポイントをどうしても使い切りたかったのじゃ。これはただの用事で、楽しい事でもなんでもねえ。早く済ますに限る。

名古屋の駅には、八天堂という広島発のクリームパン屋がある。夫曰く「買いたくてもいつも売り切れてる」との事。テレビでもなかなか買えないと言ってた。今日はそれを買おうと思ってた。12時に駅に着いて、まだクリームパンがたくさんあることを確認して、帰りに買う事にする。だって要冷蔵なんですもの。

高島屋の11階の三省堂が、ここらでは一番大きいのでしばらくうろつくけど、もう料理本とかグルメ本とか生活本にばっかり目がいく。かつては全く興味がなかったのになー。人は変わる。ねえちゃんの本棚も、いつの間にか「日経ウーマン」とか「プレジデントファミリー」とかになってて、びっくりした。姉が大人になっていた。昔は私も姉も一応ファッション雑誌に一番興味があったのよ、これでも。今一切興味がなくて、驚く。ファッションの流行なんてどうでもええ。腹の目立たないワンピースさえあればええ。よく考えたら、妊娠する前から腹の目立たないワンピースばっかり着ていたので、私のマタニティライフは出費が少なくてラッキー!よかった、生まれつき腹が出てて。

思った程の刺激を本屋からは得られず、トイレ前のベンチで休憩。高校生の頃は、朝10時から夕方6時まで梅田の街を歩き回っても平気だったのに、今や徘徊1時間でベンチ休憩。もう帰りたい。

せっかく来たんだからと、自らを奮い立たせて高島屋催事場で開催されていた「ベビィ、キッズ、マタニティファッションセール」というのを見る。私が新生児服を見ていたら、母親と来ていたきらびやかな名古屋嬢妊婦に押しのけられた。「ママァ!こっちこっちいい!オーガニックコットンだってえええ」と、母親と来ているのでなんか強い。なんかさみしくなる。名古屋は親と同居している人が多いので、なんか強くて、私は苦手である。私も三重で母と買い物したい。戦意喪失、かつホームシックになり、何も買わずに帰る事にする。弱し。

八天堂のクリームパンだけが私の心の支え。これを買って夫に褒めてもらおう。ほんのちょっと並んで、4個買った。やったぞー!帰りの電車は座れた。家に着いたのは三時半。3時間ぐらいの外出で疲れた。情けなや。

本来甘い物はそんなに食べないけど、ウキウキしてクリームパンを食べる。ふむ、うまいけど、すぐに私の甘味リミットはやってきた。漬け物が食べたい。どこでもドアがほしい。物欲ってなんだろう。と、色々ぼんやり考えた。

その日夫は飲めない酒を飲まされて、酔っぱらって帰って来た。いつもと違うお調子者人間になっていた。水とクリームパンを喜んで食べた。

 

 

  • 2012年10月23日
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子ども文化広場図書館へ行く。

ワタスが、足しげく通っていた自転車で15分の図書館が、、、閉館した。今度のオープンは場所を移して1月だとよ。気が遠くなるほど先に思える。私の週に一度のお楽しみがこうしてひとつ消えた。歩いていけたアピタも、8月に閉店した。この市の人々がよってたかって私を困らせようとしておるな。というような被害妄想が私の脳内を跋扈しておりました。

泣き崩れておった私でしたが、ふと顔をあげて市内地図を見ると、歩いて10分の徒歩圏内に「子ども文化広場図書館」の文字が。涙をふいて、帽子をかぶり、リュックを背負って行って来ました。

3階立ての可愛らしい建物内は、子ども天国でした。(写真撮り忘れた)普通の図書館なら、子どもが騒ぐのを肩身が狭い想いをして、ドキドキしながら本を探しているお母さん達ですが、ここはなにせ子どもの為の図書館ですから、実にのびのびとお母さんも子どもも楽しそうでした。私も妙にウキウキと明るい気持ちで、本を探しました。

でもそこはやはり子ども図書館。三十路の女がくらいつくような本がなかなかない。「放課後ドッキリ魔女っ子シリーズ」や「世界の偉人列伝」、「シートン動物記」はもう小学校の時に十分読んだので、今更手が伸びない。と思ったそのとき、「お母さんの為の本棚」という小さなスペースを発見。

その中に、やまだみつこさんというイラストレーターが描いた子育て漫画「お母さん、だいじょうぶ?」がありまして、借りて来ました。これがすーごくすーごおおく面白かったので、いつも刑事小説ばかり読んでいる夫にも「絶対読んでようううう!!」と言いました。

私、久しぶりに漫画を読んで何度も声を出して笑いました。こんなことは岡田あーみんの「こいつら100%伝説」以来の事です。母乳の為に叶姉妹のようにでっかくなった自分のおっぱいが、自分の顔とあまりにも似合ってないので親に笑われた、とか、歩行器に乗った娘のスピードがすんげー速い、とか、赤ちゃんと自分だけの日々を過ごしていて、ある日大人としゃべろうとしたら言葉が出てこなかったとかのお話が、簡潔でほのぼのとしていながらも絶妙に笑いを誘うタッチで描かれています。

子どもが産まれたら、「あ、やまださんが言ってたのはこのことか〜。」と思うでしょうか。それが楽しみになりました。(全然違うかもしれんけど)

 

  • 2012年10月17日
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栗拾い2012。

栗の木に登るツキノワグマ!!ではなく夫の勇姿です。全身黒だと、クマと間違われて近所の人に撃ち殺されやしないかとハラハラしました。毎年律儀に実るおばあちゃんちの栗達。去年は一人でこそこそ取ったけど、今年は夫とともに愛知からわざわざ栗拾いに来ました。

自然と戯れることがそれほど好きではない夫ですので、「途中で嫌になったらうちで寝てていいから」と言っておき、様子をみていました。すると、最初こそちょっと面倒くさそうに地面の栗を転がしていた夫が、だんだんとヒートアップ。そのうち「高枝切りばさみ持ってくる!」と言い出し、ついには木に登り、最終的にブーメランまで用意して汗まみれで栗と格闘しておりました。「そろそろ帰ろうよー」と私が言っても「まだまだ!」と言う夫。意外でした。いやー良かった良かった。

眠っていた野生の血が騒いだのだね。スバラシイ。これからも夫を少しずつ野生に目覚めさせよう。

苦労して採った栗達。今年は1つ1つが大きくて、丸みがあって、1つ1つなでてやりたいくらいかわいい栗でした。栗ごはんにしたり、そのまま茹でて食べました。毎年の事だけど、全然飽きないもんだな。

今回の里帰りの為に、私は一宮の近所でロールケーキを買っていました。そしたら、夫も名古屋で堂島ロールを買ってくれていました。そしたら母が三重で二つもケーキを用意して待ってくれていました。合計4つのケーキが揃ったので、スペインから電話をかけてきていた姉に自慢しました。

来年はねえちゃんも一緒に栗拾いできたらいいね。楽しい里帰りでした。

 

  • 2012年10月10日
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わかりあわなくていい。

穂村弘さんのエッセイ「もうおうちへかえりましょう」を読んでいた。そのなかに、「わかりあえるか」というエッセイがあった。それは「男と女はわかりあえるか」というテーマの原稿依頼を穂村さんが受けたときの話だった。

穂村さん曰く、「女と男がわかりあえるか」というテーマそのものが、女性側からのニーズだけであり、男はそもそもそんなこと考えた事も無いという話だ。かといって、男性が女性とわかりあいたくないと思っているのかといえば、そうではなくて、男性は男女がわかりあうとかあわないとかということ自体を考えたことがない、、、とな。なるほどー!それはもっともだ。

一方女性側からみると、「男女がわかりあう」ことは重要で、女性たちは、「完璧なシンパシー」に対する強い憧れを持っていると。それで、女性が「完璧なシンパシー」に支払ってもいい対価が、女性は「命の半分」なのに対して男性側は「6300円」なんだってさ。あーおもしろい。これじゃあわかり合えるわけないね。

私はずっと共学で過ごして来たけど、男の子と気軽に話せるようになったのは大学生からだった。それで、私は「男子に共感する事」が男子と仲良くする際きっと大事なことなんだろうと思って、「わかるわかるー」を連発していたが、はっきりいって全然わからんかったし、どれだけ共感しようとも別にモテなかった。逆に、女子と話していて「わかるわかるー」を連発すると、私の周りには「しほちゃんって気が合うー!」と言ってくれるたくさんの女友達で溢れた。

しかも、「男の子って、下品でやーね」と言っているような、いかにも女子らしい子は、男子と共感する素振りを一切見せずとも、むしろその「男女の違い」を見せつける事で爆発的にモテていた。私は気付くのが遅かったんだなあ。

「わかりあえるわけねえべさ」とはっきりと気付いてから、色々と楽になった。そもそも、一緒に居る相手が女性である場合の方が、疲れるのかもしれない。なぜなら、相手は「完璧なシンパシー」を求めているからだ。よほど気心の知れた間柄でなければ、彼女の発する言葉や態度1つ1つを、決してないがしろにしてはいけない。私は相手の心を読むエスパーとならなければなるまい。たまに女性と話して、その細かな心の動き、表情、表現に私は驚いてしまう。

その点、夫といるのは大変に楽であるということに気がついた。ぼーっと一緒のソファに座っていて、ずーーーーっと無言でも、全然気にならない。たま〜に私が私の言語でなにか発すると、たいてい「君は何を言ってるの?」と夫は言うのである。全くわかりあっていないのだけど、私はそれがおかしくってラクでたまらないのだった。

今日も、私が一切興味の無いテレビ番組を夫は一生懸命観ている。その後ろ頭を観ながら、「この人は一体何を考えてるんだろうなあ?」と思っている。

  • 2012年10月6日
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二人の証人。

最近読んだ本で、ちょっと世界が違って見えるようになる本だったのが瀬戸内寂聴さんと美輪明宏さんの対談集。すごくおもしろくて、あっというまに読めた。

驚いたのは、二人が三島由紀夫や川端康成や江戸川乱歩という、今は生きていない伝説のような人々と親しく、気持ちを通い合わせていたこと。よく考えたら、二人の年齢を考えると全然おかしくないのだけど、本当にさっきまでしゃべってたよ、三島さんと、というような感じで話すのですごくびっくりした。江戸川乱歩って私うっすら架空の人物だと思ってたし、川端康成は本当はノーベル文学賞をもらいたくなかったとか、それで自殺したとか。

二人も「歴史に残る人たちと知り合えた幸せ」について語っていたけど、三島由紀夫さんのことを本当に「純粋で子どものような真っすぐな人」と言っていて、色々誤解を受けがちな三島由紀夫のことをこうして語ってくれる人がいて、なんか良かったなあと、思った。三島さんはいい友人をもったのだなあ。

霊についても、すごくあけっぴろげに話していて、美輪さんが霊視ができることは有名だけど、美輪さん自身最初は全然信じてなくって、見えるのがいやでいやでしょうがなかったとか。どういうふうに見えるのかといったら、昨日の焼き芋が美味しかったなあとか、色々な事を同時にひとは考えていたりするけど、それと一緒で、たくさんのことを同時に感じたり考えたりするように見えるのだって。

私は生まれ変わりとか、死んだ人の魂とか、そういうの全部信じたい方で。宇宙人とか、キツネの霊とかも全部。こわいんだけども、それがおじいちゃんの霊なら全然怖くないなあと思う。おばあちゃんがよく「おじいちゃんに色々うまくいくようにお祈りしてた。」と言ったり「今日は山の神様の日やから。」とか当たり前のように言っているときは、「またそんな変な事いって。」と思ったりするのだけれど、自分の大好きだった人や家族が亡くなると、どんどん霊や魂というものが愛しくなってくるのだろうと思う。(おばあちゃんが危ういのは、それを頼りにしすぎてる所にある)

「何かが見ていてくれる」と漠然とだけど信じる事は、それを頼りにするということではなくって、「じゃあ、ちゃんと生きなくっちゃな。」と前向きにさせてくれる力があると思う。死んでしまったおじいちゃんでもいいし、お天道様がみてる、ということでもいいし。

見えないものを意識させてくれる本や言葉は、たまに読むと、私は背筋が少し伸びるのだった。

 

  • 2012年10月2日
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