
佐野洋子さんの書いた「シズコさん」を最近読み終えた。シズコさんというのは、佐野さんが自分のお母さんのことを書いたエッセイで、ものすごいのだ。
佐野さんは、4歳の時にお母さんのシズコさんと手をつなごうとして、その手を振り払われて以来、シズコさんには一生触らない、甘えないと誓ったのだそうだ。その後もずっとシズコさんと佐野さんは仲が悪く、母を愛せない自分を佐野さんは責めながら生きていた。その憎かったお母さんが、痴呆になり、佐野さんは老人ホームにお母さんを入所させる。どんどんぼけていくお母さんは、どんどんかわいいただの小さなおばあさんになっていく。佐野さんはいつしか、お母さんのベッドに潜り込んで一緒に眠るようになる。佐野さんは色々な想いからどんどん解き放たれて行く。
お母さんを憎みながらも佐野さんは、いつも化粧をきちんとして身ぎれいにしていたお母さんを、お彼岸にはおはぎを、お正月にはたくさんのおせちを作ったお母さんを、戦後の混乱期を、必死に働いて4人の子どもを育てたお母さんを、実はすごく褒めている。自分にはできないことをやってのけた人だという。

もうひとつ、お母さんについてのエッセイ。益田ミリさんの書いた「お母さんという女」も読んだ。佐野さんの「シズコさん」とは正反対の、ひたすら娘への愛と母への愛と笑いに満ちたエッセイだ。
広告チラシで入れ物を作ったり、明石家さんまの出るテレビをこよなく楽しみにしていたり、益田さんの好きなアイスクリームを毎日冷凍庫に入れておいてくれるし、ハート形の醤油入れの入ったお弁当を毎日持たせてくれた益田さんのお母さんなのだった。35歳で未婚の益田さんは、そんな平和で愛に満ちた自分のお母さんを見て、「お母さんの事は好きだけど、お母さんと自分の人生は違う。」と思ったりする。
私の母は、佐野さんのお母さんとも益田さんのお母さんとも違うなあと思う。でも、ヨーコちゃんのお母さんだって、イッシーのお母さんだってみんな違う。
私の母は外でもバリバリ働いて、家でもバリバリ働いているから、テレビを観ている姿をほとんど見た事が無い。太りたくても太れないくらい働いている。化粧が厚くて、いつも歌舞伎役者みたいだ。でもスタイルがいいので、後ろ姿だけ見たら20代に見える。でもビデオの録画の仕方は分からない。笑い出すとのたうち回って笑う。ストッキングだけになってバレリーナの真似をする。ずっとずっと忙しいのに、時計を読めなかった私に、算数セットの時計を使って毎日算数を教えてくれた。分数ができなくて泣き出す私に、怒らないでずっと勉強を教えてくれた。私はとんでもなく怠け者で、アホな子どもだったけど、母には褒められた事しかないのだ。高校の数学のテストで、5点しか取れなかったときでも「5点も取れたやんか!すごいやんか。」と言ったのだ。
私は小さい頃から、「母が死んだらどうしよう」ということだけが一番恐ろしい事だった。それより恐い事など何もないように思える。もし、私に子どもが産まれたら、自分の子どもが死ぬ事が一番恐ろしいことに変わるのだろうか。それはまだ分からない。

今私の住んでいる一宮市は、画家の三岸節子さんの故郷らしいので、節子さんの記念美術館があります。これは、ここに住んでいる間にいかにゃならんと思い、美術に興味の無い夫も引き連れて行って来ました。だって知らない場所を運転するのがこわくてさ。
ものすごい住宅街に突然現れる立派な建物。練馬にある、いわさきちひろ美術館も住宅街に静かに建ってるけど、いわさきちひろ美術館のほうが、水彩画なだけにもっと優しい雰囲気が漂っていたなあ。三岸節子さんは重厚な油絵を描いていたせいか、建物もけっこうな重厚感があった。
館内に入ると、年配の方々がけっこうたくさんいた。もっと静まり返ってると思っていたから意外だった。どうやらべつの展示も開催されていて、それ関係の人々らしかった。
節子さんの絵は全部で24点あった。意外にも、私よりも夫の方がゆっくり絵を観ているようだった。私は絵を観ているときあれやこれや言うのはなんか恥ずかしいので、できるだけなんにも言わないでいる。夫も何を考えて観てるのか全くわからない。でも私が「この人の絵って、近くで観るより遠くから観る方が断然いいよね。」と言うと、「うん、そうだね。近くで観ると何かわからないね。」と答えた。どうやら意見は同じようだった。24点しかないので、あっと言う間に観終わってしまった。

私は大学生のとき、自分で言うのもなんだけど、それはそれは真面目な学生だったと思う。全員が寝ている授業でもノートを取っていたし、課題が出たらものすごく一生懸命やっていた。若い人間には、やってみないとわからないことがたくさんあって、何をしたらいいかよく分からないけど、今大学生の自分がやるべきことはとりあえずこれなのだ、と思っていた。授業をさぼって一人旅をする人もいっぱいいたし、インドで大麻吸ったよ、などと言う人もいたけど、私には大学の図書館だけですごく広い世界にいると思えたのだ。
毎週のように、つくばから高速バスに乗って東京の美術館にも行ったなあ、と、壁いっぱいに張られた展覧会のポスターを見ると思い出す。混雑している東京の美術館で、白粉の匂いをぷんぷんさせて大きな声でしゃべりながら観ているおばさまの集団や、彼女に絵のうんちくを垂れ流している得意げな男の人に対して「なんだよ、フン。」と思いながら、自分なりにつっぱって観ていた覚えがある。「何かを見つけなくっちゃいけない。」と思いながら焦って生きていた気がする。今思うと、なんて清く正しい学生だったのでしょう。
今はただ、この後食べる昼ご飯を楽しみにしている平和なおばさんだけど、どんな美術館に来ても当時の事を思い出す。
節子さんの綴った言葉に「果たして私は風景画家となっただろうか。私はあくまでも名所絵葉書のような風景にはしたくなかった。自分なりに消化し、私の世界を造ったつもりだ。」というのがある。
節子さんは一生つっぱって生きていたに違いない。芸術家はつっぱりを忘れたらいかんのだ。

数週間前に、近所の中華料理屋で水餃子を食べてから、度々寝る前に水餃子の事を考えていた。それから何度か「私、餃子作るから。」と夫に宣言するも、あの皮に包む作業の面倒臭さを考えると、いつも私は寝る前に水餃子の事を思い描くだけで実行に移せなかった。
でも、インターネットで魅力的な水餃子のレシピを見つけて、ついに私は実行に移した。「エビとレンコンの水餃子」なんて美味そうなんだ!
私が小さかった頃、我が家ではよく餃子を作った。それも父が率先して作ってくれていた。年に数回だけ、父が突然「オレはひと味違うんだぜ」という所を見せつける為に、料理をすることがあった。それは、しいたけをめちゃくちゃ入れるめんつゆとか、牛丼とか、ゴルゴンゾーラチーズのスパゲッティとか、突然チャイを作ったりなどで、父が料理した後の台所は道具が出しっ放しで荒れ果てた。そして、偉業を成し遂げたあとの父は、その料理を食べる私達の顔を見て「どや、うまいやろ。」と誇らしげに言うのだった。すべてが美味かったわけではないと私は記憶している。でもその大変に大げさな料理の中でも、私は餃子が一番好きだった。それは大抵日曜日などで、家族全員が一丸となって餃子を包むのだった。餃子に捧げる日曜日なのだった。
うすい皮の中に、ニラやひき肉がたくさん入った具を入れるのだが、その量の調整がすごく難しくて、上手に包めるとみんなに披露して喜んだ。その作業中でも、父は餃子に関するうんぬんかんぬんを語っていたように思う。
だから私にとって、餃子とは大勢でワイワイしながら作る物であって、一人で包んだって楽しくも何ともない。それにしても、小さい頃にやたら餃子を包んだせいで、私ってなんて包むのが上手いんだろう。そんなことをぼんやり考えながらも、私はようやく一人で、無言で、テレビもつけずに餃子を包み終えたのだ。

孤独に耐えながらも、どうしても食べたかった水餃子だったのに、なぜかこの日だけつわりちゃんがうっすら頭をもたげていた。それは調理中、エビの皮をむいている時からもやもやとしていた。エビって生臭い。ニラも臭過ぎる。グラグラしながらも、ゆでたら絶対美味しいに決まってる。そう自分を励ましながら、やっと茹で終えた。
やはりダメだった。調理中のエビの匂いが鼻の中に住み着いて、三個くらいしか食べられなかった。その分仕事から帰って来た夫にモリモリに盛りつけた。「おいしい?おいしいよな?何点?」とにじりよったら、「ニラがちょっとクサイから80点。」という事だった。あ、私以外でもやっぱり臭かったんだね。つわりのせいだけじゃなかったんだね。
父は、もうとんと料理を作らなくなった。黄色いソファに座って、ず〜〜〜っと鬼平犯科帳を観ている。それでも時々餃子を無償に食べたくなるようで、専門店の餃子を突然大量に買い込んだりしている。私はどこの餃子を食べても、絶対に小さい頃食べたうちの餃子が一番美味しかったと思うのだ。
だからもう一度、作りたかったけど、私は包み方しか教わってなかったんだった。

安産祈祷は5ヶ月かららしい。そんなこと知らなかったけど、とりあえず熱田神宮へ安産お守りだけ買いに行く。お守りって、本当に守ってくれるんだろうか。私は今まで何かのお守りってわざわざ買ってもったことない、死んだ愛猫ミント君のヒゲだけはずっと持ってたけど。安産お守りを一応鞄にくくりつけた。頼んだぞ。

その後、ファミリー層の楽園イオンモールへ。ここならきっとなんでもあるべさ。夏休みの宿題とか早めにやるほうだったから、気も早々マタニティグッズを買っておく。腹だけすでに臨月なみに大きいけど、それは前からだから。無印で買ったマタニティー用のとんでもねえデカパンを履いて家の中をウロウロしてたら、夫が「プロレスラーみたいだね。」と。急いで鏡を見たら本当にマタニティ志保子としてデビューできそうだった。
私はレースとか、キラキラ素材とかそういうのは好きではないので、本当にジミーズなものばかりになってしまう。色が派手なのは好きなんだけどなあ。でも赤いデカパンとかだったら本当になんかすごかったと思う。
そんで、そのデカパンと妊婦用授乳機能付きのデカブラをつけて家の中をウロウロしてたら、夫が「ゲエ!」と言った。今この瞬間、私はきっと夫から見て女性ではなくなったのだなと確信した。トイレの戸を開け放して用を足したり、その日に出たうんこの大きさとかを手で表したりしていた、今までの私の所作の積み重ねがそのような結果を生んだのだと。私が悪い。

私がイオンモールのマタニティコーナーで、少々接客の濃厚過ぎるおばさまに捕まっていると、退屈すぎたのか夫がどこかへ消えた。夫は動物に一寸の興味もないのに、隣のペットショップでいいものを見つけたと嬉しそうに報告してくれた。それがこの犬だった。夫はこういう物に多少なりとも心を動かされたのだと思うと、私は不思議で、それが新たな発見だった。

それにしても、ビッグなつわりがこない。漠然とした気持ち悪さはたまにはあるけど、「これだろうか?」と思いながら過ごしている。もう赤ちゃんがなかったことになってやしないかと、逆に私は心配になってくる。ゆかりご飯は、別に妊娠前から美味しいし。私の気分と機嫌が悪くなる事を恐れてか、ランニングついでに夫がガリガリ君の梨味を買って来てくれた。皆さん、私はガリガリ君のソーダ味には一切興味がありませんが、この梨味は本当に美味しいですから。食べてみてください。
でもそのガリガリ君も、気分が悪くなる前に全部食べてしまった。他にしておかなきゃいけない事って一体なんだろう。

子が宿りました。誰にって、私にです。シンジラレナイ!!車の免許を取った時も結婚した時も周囲の人に言われたけど、信じられないって。私、確実に大人の階段を登っている。妊娠した時はさすがにワナワナと手が震えました。
だいたいの女性は、妊娠検査薬で陽性が出てから産婦人科に行くらしいけど、それが面倒くさく思えて「ワシは、妊娠した。」との確固たる想いを胸に、一宮で大人気のレディースクリニックへ。受付でも「妊娠です。」と堂々と告げる。お医者さんから「陽性反応でたの?」と聞かれたけど「いえ、カンです。」と告げる。図々しい妊娠初心者でした。
しかも今回初めて産婦人科で例の足を広げる機械に初乗りです。恐怖でにわかに騒いでしまった私。「いたーいいいいい」と、別に痛くないのに騒いでしまった。これだけでこんなに大騒ぎしているのに、産む時は一体どれほどの恐怖なのかと思うと血の気が引く思いです。私は幼稚園の時に、「赤ちゃんを産む時って死ぬ程痛いんだよ。」という情報を聞きつけて、その日からしばらくその恐怖で凍り付いて生活していた時期があった。それが10ヶ月後くらいに現実のものになろうとは。
そうはいっても、赤ちゃんの大きさはまだほんの二センチくらいです、9週目です。胎盤が完成するまでは、まだまだ何が起こるかわかりません。それなのにもう公言してもええもんかしらとも思いますが、体の変化をここに書きたいので、早々に言いたくなってしまいました。
いちおうつわりが始まる時期らしいのですが、まだ嘔吐は一度もなく、普段通りモリモリ食べている状態。「ああ〜これがつわりなのねええ。」っていうのを少し楽しみにしていた私は、しっかり嘔吐専用バケツもリビングに用意してあるにも関わらず、まだ一度も活躍していないバケツ。ただひたすら眠いので、土日は延々眠り続ける。でも夫も隣で同じくらい眠り続けるので、別にこれも普通なのかしら??土日はほとんど眠っている夫婦。すんごい省エネ。
最近、私の友人達がどんどこ赤子を産んでいる。私も流行に乗りたかったのだね。しばらく妊婦生活をエンジョイしようと思います。