
穂村弘さんのエッセイ「もうおうちへかえりましょう」を読んでいた。そのなかに、「わかりあえるか」というエッセイがあった。それは「男と女はわかりあえるか」というテーマの原稿依頼を穂村さんが受けたときの話だった。
穂村さん曰く、「女と男がわかりあえるか」というテーマそのものが、女性側からのニーズだけであり、男はそもそもそんなこと考えた事も無いという話だ。かといって、男性が女性とわかりあいたくないと思っているのかといえば、そうではなくて、男性は男女がわかりあうとかあわないとかということ自体を考えたことがない、、、とな。なるほどー!それはもっともだ。
一方女性側からみると、「男女がわかりあう」ことは重要で、女性たちは、「完璧なシンパシー」に対する強い憧れを持っていると。それで、女性が「完璧なシンパシー」に支払ってもいい対価が、女性は「命の半分」なのに対して男性側は「6300円」なんだってさ。あーおもしろい。これじゃあわかり合えるわけないね。
私はずっと共学で過ごして来たけど、男の子と気軽に話せるようになったのは大学生からだった。それで、私は「男子に共感する事」が男子と仲良くする際きっと大事なことなんだろうと思って、「わかるわかるー」を連発していたが、はっきりいって全然わからんかったし、どれだけ共感しようとも別にモテなかった。逆に、女子と話していて「わかるわかるー」を連発すると、私の周りには「しほちゃんって気が合うー!」と言ってくれるたくさんの女友達で溢れた。
しかも、「男の子って、下品でやーね」と言っているような、いかにも女子らしい子は、男子と共感する素振りを一切見せずとも、むしろその「男女の違い」を見せつける事で爆発的にモテていた。私は気付くのが遅かったんだなあ。
「わかりあえるわけねえべさ」とはっきりと気付いてから、色々と楽になった。そもそも、一緒に居る相手が女性である場合の方が、疲れるのかもしれない。なぜなら、相手は「完璧なシンパシー」を求めているからだ。よほど気心の知れた間柄でなければ、彼女の発する言葉や態度1つ1つを、決してないがしろにしてはいけない。私は相手の心を読むエスパーとならなければなるまい。たまに女性と話して、その細かな心の動き、表情、表現に私は驚いてしまう。
その点、夫といるのは大変に楽であるということに気がついた。ぼーっと一緒のソファに座っていて、ずーーーーっと無言でも、全然気にならない。たま〜に私が私の言語でなにか発すると、たいてい「君は何を言ってるの?」と夫は言うのである。全くわかりあっていないのだけど、私はそれがおかしくってラクでたまらないのだった。
今日も、私が一切興味の無いテレビ番組を夫は一生懸命観ている。その後ろ頭を観ながら、「この人は一体何を考えてるんだろうなあ?」と思っている。

最近読んだ本で、ちょっと世界が違って見えるようになる本だったのが瀬戸内寂聴さんと美輪明宏さんの対談集。すごくおもしろくて、あっというまに読めた。
驚いたのは、二人が三島由紀夫や川端康成や江戸川乱歩という、今は生きていない伝説のような人々と親しく、気持ちを通い合わせていたこと。よく考えたら、二人の年齢を考えると全然おかしくないのだけど、本当にさっきまでしゃべってたよ、三島さんと、というような感じで話すのですごくびっくりした。江戸川乱歩って私うっすら架空の人物だと思ってたし、川端康成は本当はノーベル文学賞をもらいたくなかったとか、それで自殺したとか。
二人も「歴史に残る人たちと知り合えた幸せ」について語っていたけど、三島由紀夫さんのことを本当に「純粋で子どものような真っすぐな人」と言っていて、色々誤解を受けがちな三島由紀夫のことをこうして語ってくれる人がいて、なんか良かったなあと、思った。三島さんはいい友人をもったのだなあ。
霊についても、すごくあけっぴろげに話していて、美輪さんが霊視ができることは有名だけど、美輪さん自身最初は全然信じてなくって、見えるのがいやでいやでしょうがなかったとか。どういうふうに見えるのかといったら、昨日の焼き芋が美味しかったなあとか、色々な事を同時にひとは考えていたりするけど、それと一緒で、たくさんのことを同時に感じたり考えたりするように見えるのだって。
私は生まれ変わりとか、死んだ人の魂とか、そういうの全部信じたい方で。宇宙人とか、キツネの霊とかも全部。こわいんだけども、それがおじいちゃんの霊なら全然怖くないなあと思う。おばあちゃんがよく「おじいちゃんに色々うまくいくようにお祈りしてた。」と言ったり「今日は山の神様の日やから。」とか当たり前のように言っているときは、「またそんな変な事いって。」と思ったりするのだけれど、自分の大好きだった人や家族が亡くなると、どんどん霊や魂というものが愛しくなってくるのだろうと思う。(おばあちゃんが危ういのは、それを頼りにしすぎてる所にある)
「何かが見ていてくれる」と漠然とだけど信じる事は、それを頼りにするということではなくって、「じゃあ、ちゃんと生きなくっちゃな。」と前向きにさせてくれる力があると思う。死んでしまったおじいちゃんでもいいし、お天道様がみてる、ということでもいいし。
見えないものを意識させてくれる本や言葉は、たまに読むと、私は背筋が少し伸びるのだった。

佐野洋子さんの書いた「シズコさん」を最近読み終えた。シズコさんというのは、佐野さんが自分のお母さんのことを書いたエッセイで、ものすごいのだ。
佐野さんは、4歳の時にお母さんのシズコさんと手をつなごうとして、その手を振り払われて以来、シズコさんには一生触らない、甘えないと誓ったのだそうだ。その後もずっとシズコさんと佐野さんは仲が悪く、母を愛せない自分を佐野さんは責めながら生きていた。その憎かったお母さんが、痴呆になり、佐野さんは老人ホームにお母さんを入所させる。どんどんぼけていくお母さんは、どんどんかわいいただの小さなおばあさんになっていく。佐野さんはいつしか、お母さんのベッドに潜り込んで一緒に眠るようになる。佐野さんは色々な想いからどんどん解き放たれて行く。
お母さんを憎みながらも佐野さんは、いつも化粧をきちんとして身ぎれいにしていたお母さんを、お彼岸にはおはぎを、お正月にはたくさんのおせちを作ったお母さんを、戦後の混乱期を、必死に働いて4人の子どもを育てたお母さんを、実はすごく褒めている。自分にはできないことをやってのけた人だという。

もうひとつ、お母さんについてのエッセイ。益田ミリさんの書いた「お母さんという女」も読んだ。佐野さんの「シズコさん」とは正反対の、ひたすら娘への愛と母への愛と笑いに満ちたエッセイだ。
広告チラシで入れ物を作ったり、明石家さんまの出るテレビをこよなく楽しみにしていたり、益田さんの好きなアイスクリームを毎日冷凍庫に入れておいてくれるし、ハート形の醤油入れの入ったお弁当を毎日持たせてくれた益田さんのお母さんなのだった。35歳で未婚の益田さんは、そんな平和で愛に満ちた自分のお母さんを見て、「お母さんの事は好きだけど、お母さんと自分の人生は違う。」と思ったりする。
私の母は、佐野さんのお母さんとも益田さんのお母さんとも違うなあと思う。でも、ヨーコちゃんのお母さんだって、イッシーのお母さんだってみんな違う。
私の母は外でもバリバリ働いて、家でもバリバリ働いているから、テレビを観ている姿をほとんど見た事が無い。太りたくても太れないくらい働いている。化粧が厚くて、いつも歌舞伎役者みたいだ。でもスタイルがいいので、後ろ姿だけ見たら20代に見える。でもビデオの録画の仕方は分からない。笑い出すとのたうち回って笑う。ストッキングだけになってバレリーナの真似をする。ずっとずっと忙しいのに、時計を読めなかった私に、算数セットの時計を使って毎日算数を教えてくれた。分数ができなくて泣き出す私に、怒らないでずっと勉強を教えてくれた。私はとんでもなく怠け者で、アホな子どもだったけど、母には褒められた事しかないのだ。高校の数学のテストで、5点しか取れなかったときでも「5点も取れたやんか!すごいやんか。」と言ったのだ。
私は小さい頃から、「母が死んだらどうしよう」ということだけが一番恐ろしい事だった。それより恐い事など何もないように思える。もし、私に子どもが産まれたら、自分の子どもが死ぬ事が一番恐ろしいことに変わるのだろうか。それはまだ分からない。

今私の住んでいる一宮市は、画家の三岸節子さんの故郷らしいので、節子さんの記念美術館があります。これは、ここに住んでいる間にいかにゃならんと思い、美術に興味の無い夫も引き連れて行って来ました。だって知らない場所を運転するのがこわくてさ。
ものすごい住宅街に突然現れる立派な建物。練馬にある、いわさきちひろ美術館も住宅街に静かに建ってるけど、いわさきちひろ美術館のほうが、水彩画なだけにもっと優しい雰囲気が漂っていたなあ。三岸節子さんは重厚な油絵を描いていたせいか、建物もけっこうな重厚感があった。
館内に入ると、年配の方々がけっこうたくさんいた。もっと静まり返ってると思っていたから意外だった。どうやらべつの展示も開催されていて、それ関係の人々らしかった。
節子さんの絵は全部で24点あった。意外にも、私よりも夫の方がゆっくり絵を観ているようだった。私は絵を観ているときあれやこれや言うのはなんか恥ずかしいので、できるだけなんにも言わないでいる。夫も何を考えて観てるのか全くわからない。でも私が「この人の絵って、近くで観るより遠くから観る方が断然いいよね。」と言うと、「うん、そうだね。近くで観ると何かわからないね。」と答えた。どうやら意見は同じようだった。24点しかないので、あっと言う間に観終わってしまった。

私は大学生のとき、自分で言うのもなんだけど、それはそれは真面目な学生だったと思う。全員が寝ている授業でもノートを取っていたし、課題が出たらものすごく一生懸命やっていた。若い人間には、やってみないとわからないことがたくさんあって、何をしたらいいかよく分からないけど、今大学生の自分がやるべきことはとりあえずこれなのだ、と思っていた。授業をさぼって一人旅をする人もいっぱいいたし、インドで大麻吸ったよ、などと言う人もいたけど、私には大学の図書館だけですごく広い世界にいると思えたのだ。
毎週のように、つくばから高速バスに乗って東京の美術館にも行ったなあ、と、壁いっぱいに張られた展覧会のポスターを見ると思い出す。混雑している東京の美術館で、白粉の匂いをぷんぷんさせて大きな声でしゃべりながら観ているおばさまの集団や、彼女に絵のうんちくを垂れ流している得意げな男の人に対して「なんだよ、フン。」と思いながら、自分なりにつっぱって観ていた覚えがある。「何かを見つけなくっちゃいけない。」と思いながら焦って生きていた気がする。今思うと、なんて清く正しい学生だったのでしょう。
今はただ、この後食べる昼ご飯を楽しみにしている平和なおばさんだけど、どんな美術館に来ても当時の事を思い出す。
節子さんの綴った言葉に「果たして私は風景画家となっただろうか。私はあくまでも名所絵葉書のような風景にはしたくなかった。自分なりに消化し、私の世界を造ったつもりだ。」というのがある。
節子さんは一生つっぱって生きていたに違いない。芸術家はつっぱりを忘れたらいかんのだ。

数週間前に、近所の中華料理屋で水餃子を食べてから、度々寝る前に水餃子の事を考えていた。それから何度か「私、餃子作るから。」と夫に宣言するも、あの皮に包む作業の面倒臭さを考えると、いつも私は寝る前に水餃子の事を思い描くだけで実行に移せなかった。
でも、インターネットで魅力的な水餃子のレシピを見つけて、ついに私は実行に移した。「エビとレンコンの水餃子」なんて美味そうなんだ!
私が小さかった頃、我が家ではよく餃子を作った。それも父が率先して作ってくれていた。年に数回だけ、父が突然「オレはひと味違うんだぜ」という所を見せつける為に、料理をすることがあった。それは、しいたけをめちゃくちゃ入れるめんつゆとか、牛丼とか、ゴルゴンゾーラチーズのスパゲッティとか、突然チャイを作ったりなどで、父が料理した後の台所は道具が出しっ放しで荒れ果てた。そして、偉業を成し遂げたあとの父は、その料理を食べる私達の顔を見て「どや、うまいやろ。」と誇らしげに言うのだった。すべてが美味かったわけではないと私は記憶している。でもその大変に大げさな料理の中でも、私は餃子が一番好きだった。それは大抵日曜日などで、家族全員が一丸となって餃子を包むのだった。餃子に捧げる日曜日なのだった。
うすい皮の中に、ニラやひき肉がたくさん入った具を入れるのだが、その量の調整がすごく難しくて、上手に包めるとみんなに披露して喜んだ。その作業中でも、父は餃子に関するうんぬんかんぬんを語っていたように思う。
だから私にとって、餃子とは大勢でワイワイしながら作る物であって、一人で包んだって楽しくも何ともない。それにしても、小さい頃にやたら餃子を包んだせいで、私ってなんて包むのが上手いんだろう。そんなことをぼんやり考えながらも、私はようやく一人で、無言で、テレビもつけずに餃子を包み終えたのだ。

孤独に耐えながらも、どうしても食べたかった水餃子だったのに、なぜかこの日だけつわりちゃんがうっすら頭をもたげていた。それは調理中、エビの皮をむいている時からもやもやとしていた。エビって生臭い。ニラも臭過ぎる。グラグラしながらも、ゆでたら絶対美味しいに決まってる。そう自分を励ましながら、やっと茹で終えた。
やはりダメだった。調理中のエビの匂いが鼻の中に住み着いて、三個くらいしか食べられなかった。その分仕事から帰って来た夫にモリモリに盛りつけた。「おいしい?おいしいよな?何点?」とにじりよったら、「ニラがちょっとクサイから80点。」という事だった。あ、私以外でもやっぱり臭かったんだね。つわりのせいだけじゃなかったんだね。
父は、もうとんと料理を作らなくなった。黄色いソファに座って、ず〜〜〜っと鬼平犯科帳を観ている。それでも時々餃子を無償に食べたくなるようで、専門店の餃子を突然大量に買い込んだりしている。私はどこの餃子を食べても、絶対に小さい頃食べたうちの餃子が一番美味しかったと思うのだ。
だからもう一度、作りたかったけど、私は包み方しか教わってなかったんだった。