
高校からの友人のひとみちゃんとつーちゃん、そしてイクメンであるひとみちゃんの旦那さん、ひとみちゃんの愛息子よーちゃんの総勢4名が我が家に遊びに来てくれました。
私が一宮に住んでいた時も、三重からわざわざ車をぶっとばして来てくれたアクティブママひとみちゃんでしたが、息子さんはそのときより当たり前ですが成長しておりまして、もう1歳半とのことです。アンパンマンの歌まで歌えるようになっており、いちいち感動してしまうものです、子どもの成長というものは。そして、ここでもアンパンマンの支持率の高さを目の当たりにして、やなせたかしさんの偉大さを再認識したりするのでした。
よーちゃんは、もう大人のようなウンコもするし、メロンも食べられるし、パンを食べるふりをして実は食べていないよ、などというおちょけた仕草もしており、我が息子も1年と少し経てばこのように人らしく振る舞えるようになるのだと思うと、ちょっと安心しましたが、ひとみちゃん曰く「歩けない時の方が楽だったよ、、、。」というつぶやきを聞いて、再び顔面が蒼白になる私でした。
ひとみちゃんの旦那さんは、12星座中最も母性の強い星座カニ座の生まれで、もう産まれた時からイクメンになることを運命づけられた人でありまして、うらやましい限りでした。よーちゃんをひざに抱っこして、メロンを食べさせたり、こぼれるウンコをキャッチしたり、軽々と抱き上げたり、私の息子にすら「べろべろばー」を惜しげもなく披露するなど、大きな体からは想像もつかない程に赤子への愛情がほとばしっておりました。私の夫は、今は東京に住んでいてなかなかイクメンっぷりを見せてはもらえない環境ではありますが、こないだ三重に来てくれたときなどに「おしめ換えてみる?」と問うと「まだそんな高度なことはオレにはできない。」と言われ、「いつやるの?今でしょ!」と言いそうになりました。東京にわてらが引っ越した時はよろしく。ウンコのひとつも浴びてもらわにゃあいけん。私なんて多分うっかり食べちゃってるよ、ウンコ。もうウンコをブローチ代わりにできるくらいになってもらいますからね。

おもちゃをこんなにいただきました!しかもコンランショップですよ、、、。さすが、オシャレママひとみちゃんです。そういえば私の友人かおりちゃんは、コンランショップを「混乱ショップ」だと思っていたそうです。「物が多すぎて混乱するほどだからっていう意味だと思ってた。」と言っていました。なるほどー。違うよ。
先輩ママひとみちゃんに、私はまたもや聞きたい事が山ほどありすぎて、「チクビ」というフレーズを50回くらい叫びました。「チクビが痛いけどどうしたらいいか!チクビから血が出たけど大丈夫なんか!?」とか。「とりあえず3ヶ月後くらいに、突然チクビは強靭になる」という言葉を聞き、ちょっと落ち着きを取り戻しました。チクビがスーパーサイヤ人になる日は近い。
一緒に来ていたもう一人の友人つーちゃんの、小さい手の結婚線などを確認して、楽しい時間はあっという間に過ぎて行きました。栄養士でのんびりやでかわいらしいつーちゃんですが、のんびりしすぎてただ今彼氏募集中です。まだまだこんなカワイイ娘が転がっていますよ、世の男性方。問い合わせは私まで。
東京に行ったら、もうなかなか三重には帰って来れないだろうなあ。1年に一回帰れればいいほうだよなあ。みんなとももうしばらーくは会えないだろうけど、今度会ったらきっとまたよーちゃんはでっっかくなって私を驚かせるのでしょう。そのときまで、健やかに、元気で。

生後2ヶ月、久しぶりに登場の夫も東京からやってきていたので三重県護国神社にお宮参りに行って来ました。じいじとばあばも引き連れて。神主さんが厳かになにやら叫んでいるときに、息子2度屁を放つ。最後に絵馬に願い事を書いてぶらさげてきましたが、ああいうとき、何を書くか迷う物ですね。他の人の絵馬も確認しつつ、ありきたりだけど結局一番大事な願い事を書いて満足。
お宮参りから帰って来て、一息ついてから今度は最寄りの写真館へ写真撮影に行って来ました。「あんたたちが産まれた時にちゃんとした写真撮ってなくて後悔した。」という母の言葉で今回実現しました。
この写真館は、私が高校生の時も成人式の時もお世話になっている写真館で、高校生の時は大学受験で必要な油絵作品の写真を撮ってもらったりしました。成人式のときは、完全にタヌキの嫁入りのような悲惨な姿の私を、そのまま「タヌキのお見合い写真」として撮影していただきました。当時はCG加工とかなかったからね、、、写真は正直ですよ。どんなに美しく私は成長しただろう?と思ってワクワクと写真の出来上がりを楽しみにしていたが、現実を突きつけられてそれなりにショックであった。こんな顔でのこのこと成人式に出席していたのかと思うと恐ろしい気がした。しかし私の母の成人式の写真も似たようなものだったから、20歳はきっとそういうものなのだろう。

私が17歳で初めて会った時から今まで、一切髪型が変わらない写真館のおばさんがにこやかに出迎えてくれた。相変わらずエジプトのファラオのような髪型であった。風が吹いても多分彼女の髪はなびかない。おじさんは、日本人のはずなのに、なぜか日本人離れしたきれいなムラの無い褐色の肌の持ち主で、カメハメハ大王に見える。つまり見た目王族のような一家である。
「金太郎の服なんて着せるの嫌だよねえ?」と言われたけど、「それでお願いします。」と私が言ったので、丸裸にされた息子は金太郎となってフラッシュを浴びた。今しか着れんばい。大きくなったら、きっと私の事を「ばばあ!うるせー!」とか言ってくるんだろう、、、。今のうちに私の好きなようにさせてくれろ。かわいいのは今のうち、、、。
「お父さんとお母さんと赤ちゃんの手を重ねたやつを撮りまーす!」といって、私達は写真やのおじさんの言われるがままに、訳の分からない姿勢やポーズを延々と取らされる。夫は汗だくになって、段々と不機嫌になり、、息子も辛抱が徐々に切れて、写真やのお姉さんの振り回すでんでん太鼓の音でトランス状態に。撮影が終わる頃には喉カラカラ、汗びしょびしょ、3人はふらふらであった。
今はデジタルの時代なので、隣の部屋で早速出来上がった写真を選ぶ。案外と一番おもろかったのは夫の写真であった。真面目にしているのになんでこんなにおもろいのか。そのおもろい写真を夫は「それはすぐに削除してください。」とか言っている。いいじゃん、別に。私だって二重あごなんだからさ。
出来上がりは一週間後。良い記念になりました。

私が産婦人科から退院してきた日の夜のごちそう。母が一人で髪を振り乱して作ってくれた。この後母は過労でぶったおれた。家事を二分してきた私が、使い物にならなくなったので色々頑張り過ぎたらしい。すまん、痔は治りました。
息子が産まれて6月23日で2ヶ月になる。痔を抱え洗濯を干し、乳をやりおむつを替え、「オレを抱いてくれー!」と泣き叫ぶ息子の要求に応えていたら、いつの間にか眉毛が中東の男性のようにふっさふさになってつながっていた。手入れしないと自分の眉毛はこんな野性味あふれるもんだったのかと関心する。骨盤矯正ベルトをつけているのに、腰がガクガクして、どっからどうみても変な歩き方になってしまった。極度のO脚になって50年のばあちゃんにまで「しほちゃん、そんな風にしかあるけんのんか?」と言われてしまった。
「長い方がいいかも」といううっすらとした夫の要求に応え伸ばしていた髪が、始末に終えない程にうっとうしくなってきたので、ある晴れた日に、東南アジアの出張散髪屋のように外で母に髪の毛を切ってもらう。美容院では長時間痔の為に座ってられんので、小学生の時以来久しぶりに母にハサミをにぎってもらった。よく言えば「不思議の海のナディア」、悪く言えば戦後の混乱期ヘアになった。母は「あたし、うまいかも」と言っていた。ありがとう、助かりました。しかし東京に引っ越す前には、もう一度美容院に行きます。

貯金を切り崩して暮らしている割に太っ腹な姉から、ベビーカーをプレゼントしてもらう。妹は得である。トムソンガゼル似の販売員の方の、セールストークが絶妙であった。押し付けがましさは一切無いのに、徐々に高い方高い方へとアホ姉妹を誘導して行った。お陰で私は背が低いにも関わらず、背の高いベビーカーを購入。腰も曲がってしまった為に、遠くから見たら老人が手押し車に必死につかまっているように見える。私の体はいつになったら元に戻るのだろう。もう戻らないのかな。
授乳は相変わらずチクビがもげそうに痛い。痛さを紛らわせる為に、息子の耳あか等をほじくったりしてやり過ごす。やはり高脂肪のものを食べ過ぎると乳腺炎になるらしいので、乳製品やらパンやらをやめることにした。「ジョア」だけは飲んでいる。チクビにぶら下がる息子をながめて、「この人とはそういえばまだ出会って2ヶ月程か、、、。」と思う。出会って2ヶ月なので、まだビクビクしながら付き合っている。泣き出す準備の為に息子が手足をばたつかせ始めると、心臓が縮みあがる。泣き声が破壊的にでかいのだ。息子が寝ている間に立って食事をする。このブログも、もちろん寝ている隙をうかがっての事だが、ウンコだけは時間を選ばず飛び出して来るので厄介である。排便に時間がかかるので、息子が長時間泣きっぱなしになり、私はパンツもはかずにうろうろして謝っている。
息子の歯ぐきの下に、歯が並んでいるのが見える。この歯が生えたら、私のチクビはもげるに違いない。おむつを蹴散らす脚力からして、相当の暴れん坊になるに違いない。反抗期が恐ろしい。もう早く息子が25歳くらいにならないだろうかと夢見るが、多分そのときになったら、「赤ちゃんの時はかわいかったなあ」と思うに違いない。今一日がとても長く思えるけど、後から振り返ると一瞬の出来事のはず。息子の小さなハナクソ一つも、逃さずに見つめよう。

布団からの脱出頻度が高い為に、慌ててベビーベッドをおばあちゃんである母が買ってくれる。しかし、私の敷き布団との高低差が激しい為に、息子が殿上人のように遠く感じる今日この頃。しかし、東京のマンションに置くスペースあるんだろうか。
それはさておき、痛みデパート上顧客プラチナカード会員の私が、また新たな痛みをお買い上げ。乳腺炎になった。乳腺炎とは、乳で作られたミルクが、出られなくなって詰まり、おっぱいがガチガチになってしまう症状のこと。寝られないくらい痛い。友人がこれになったらしいが、陣痛よりその子は痛かったらしい。
乳の出が良く、高脂肪高タンパク料理を食いまくっていた私は、なんとな〜く自分はこれになるんじゃないかと毎日ビクビクしていた。私がお菓子を食べようとすると、姉が「あんた、そんな甘いもん食べたら乳腺炎になるで。」と頻繁に私をおどして、そのおやつを姉は自分の物にしていたけど、度々というか毎日、誘惑に負けて私はムシャムシャと高カロリーおやつを食いまくっていた。
そしたら、ある日の深夜痛みと違和感でふと目覚めると、おっぱいが石に変身していた。もう人体の固さを超えていた。寝る直前に息子にしっかりと授乳をしたつもりだったのでショックが大きかった。慌てて、熟睡している息子を叩き起こして、「ほれ、吸え!吸ってくれ!母ちゃんを助けてくれ!」と叫びながら息子に乳をやろうとするも、息子はすぐに寝息をたてて眠りの世界へ帰って行った。
ガチガチの乳をほりだして、リビングを右往左往しながら明け方産婦人科に電話をした。「開院時間まで待って来てくださ〜い。とりあえずアイスノンで冷やしといてください。」と言われ、一睡もしないまま8時半の開院時間に飛び込んだ。
その日はたまたま女医さんだった。私の乳を見るなり「あ〜、おっぱいよく出るタイプの人ですね。これからも度々なりますよ、多分。自分じゃ痛くて手加減するから、看護婦さんにしぼってもらいましょう。結構痛いですよ。」と、再び辛い宣告を受ける。
ナースステーションに重い足取りで辿り着く。その日は、優しい石野真子似の看護婦さんだった。ラッキー!と思っていたら、奥から一番厳しい婦長登場。「耐えられるか?」と婦長一言。さすが、婦長。言葉に重みがありますなあ、、、と思いながら恐怖に引きつる。婦長の屈強な手が私の乳をひんづかんで、汁をひねくりだした。もう、叫ぶ気力もない私は、多分おもしろい顔をしていたのだと思う。隣で真子が笑いをこらえていた。
痛みを紛らわすために、私はしゃべった。「やっぱり、私が甘いお菓子を食べ過ぎたせいですかねえ?」と聞くと、婦長は「はあ?そんなことあらへんわ。残った乳を後絞りせんだであかんのやろ。」と簡潔に片付けられた。しかし、婦長の屈強な手を持ってしても私の固まった乳汁はしぼりきれず、「あとは、旦那さんか赤ちゃんに吸ってもらいな。」というぶっちゃけた言葉をあびせられ、私は病院を去った。
帰って来て、やっとお腹がすいたらしい息子にガチガチおっぱいを差し出すと、息子は涼しい顔をしてそれを全部吸い上げ、ウソのように痛みと固さが取れた。なんだったんだ、なんだったんだよう?初めてあそこまで固くなったので、慌てて病院に行ったけど、ああいうことは授乳開始一ヶ月過ぎた頃は割とよくあることらしい。
婦長が「カンケーねえよ」と言ったので、私は再び甘い物をむしゃむしゃ食っている。そして、たまにガチガチになっては、慌てて息子を叩き起こしている。

私立高校の英語教師を突如辞め、貯めた金をトランクにつめて、1年スペインに留学していた姉が帰って来た。女寅さんの異名を授かりながら、今までも数々の国をふらふらとしてきた姉。「今度で最後やもん。」との捨て台詞を吐いて、必死で止める家族をふりほどいて、スペインで何をしておったのやら。
スペインに行っているはずが、ある時はギリシャから、ある時はイタリアから、毎月のように違う国から絵葉書が届いていた。その度に、父や母は「あいつ〜!どこでなにやっとんのや。」と嘆きつつも無事を知る。私のパソコンには、サングラスをしてオープンカーに乗っている姉の写真が届いていた。その度に「ママ、ねえちゃん、遊んどんねんで!」と私は母にちくっていた。
その姉が「甥っ子が産まれた〜!」といって、元気に帰って来た。髪の毛は雑木林みたいにぼっさぼさだった。向こうでハレンチな水着でも着ていたのか、おかしな日焼けをしていた。写真は、姉からのおみやげ。生ハムと、オリーブの缶詰と、甥っ子の服。
体力がバイソン級の姉は、育児に疲れきっている私の強力な助っ人となった。息子が泣けば、ヘラヘラ笑って抱っこしてくれた。そして初めて姉が息子のオムツを替えてくれたとき、息子のオケツから姉めがけて一筋の黄土色の塊が発射された。「あひゃ〜!」という姉の叫び声。初めてのオムツ替えなのに、姉は息子にウンコを浴びせられたのだった。私はショックであった。じゅうたんにも、私の布団にも、もちろん姉の服にもべったりとウンコが浴びせられたからだ。ところが、姉は死ぬ程楽しそうに笑っていた。お腹を抱えて笑っていた。膨大な洗濯物を考えてショックだった私も、あまりに姉が楽しそうだったので、一緒になってお腹を抱えて笑った。「三十路シスターズの悲劇」だと思っていたら、「三十路シスターズの喜劇」に変わっていた。元気で楽観的で前向きな人間というのは、すごい。と私は思った。松岡修造みたいだと思った。

三重に来た次の日から、私の中学時代のジャージを着て、姉はばあちゃんの畑に通い始めた。「私農業するわ〜。」と言って、ウソか本当か知らんけど大口をたたく姉を見て、ばあちゃんは涙を流して喜んでいた。
ばあちゃんの耕耘機「ポチ」をへっぴり腰で操る姉。完全にポチに踊らされていた。それでも、鋼の心臓を持つ姉は、朝から夕方まで、エネルギーを放出し続けてばあちゃんの畑の草を抜き続けた。「なおちゃんは、どないなっとんのやろ?」ばあちゃんも姉の凄まじい体力に、むしろ不安を覚えていた。おやつに出したでっかいまんじゅうを3つ食ったらしい。
姉はゼンマイ仕掛けのおもちゃのように、ゼンマイが切れたら突然倒れるように眠った。それまでは、エネルギーを放出し続ける。父が、「オレにとって、あいつは男や。息子みたいなもんやな、、、。」と言っていたが、ジャージのズボンからだらしなくシャツを出している姉を見て「シャツをしまいなさい。」と注意していた。30過ぎて身なりを父から注意される姉だったが、やはり私の赤ちゃんを苦もなくあやしつづけてくれて、お風呂にも入れてくれる。なにせ体力がバイソンだから。
彼女はとてもピュアハートな人間である。元気に帰って来てくれて、とても嬉しい。