木曜日に、以前「ポスターを描く展」で一緒にポスターを作ったデザイナーのマキコさんが、うちに来てくれた。今彼女は長年勤めたデザイン会社を辞めて、自分が色々したかったことなどを思い切りやりながら、次の準備のようなもの、をしていた。この日、うちに来てくれたのは、私と私の息子の手の写真を撮る為だった。
最寄りのコンビニまで迎えに行くと、マキコさんがいた。黒い髪の毛で、潔いショートカットがとてもとても良く似合う目の大きな彼女は、一瞬でその場の空気をモダンでファッショナブルなものに変えてしまっていた。沖縄に行っていたという彼女は、以前はチェコの少女のような顔だったのに、この日は日に焼けて、タヒチの少女のようだった。おしゃれな空気という物は、存在するのだなあ。
私にとって彼女は、大都会の片隅で小さいけれどキラキラと輝いている「情熱」そのものである。彼女はもう十分「特別」であるのだけれど、いつも彼女はもっともっと「特別」になりたいと願っている、悪い意味でなく、とても純粋に。寺山修司の詩集に、「美しい女というのは、美しくなろうとしている女のことだ」というのがあったのだけれど、私は彼女に会うとそう思うのだった。それくらい、何か毎日を大事にしているように思えた。一つの言葉、一つの風景、美しいと思った事、悲しかった事、日常の小さな出来事一つ一つを、何かこぼすまいとして、その両手に必死で受け止めているような人なのだった。そして一生懸命、私にそれを伝えてくれるのだ。
私は彼女に会うと、自分が何かを失ってしまった事に気付く。それは特別になろうとする「情熱」や、美しくなろうとする純粋な気持ちのようなもので、慌てて、それを私は必死で思い出そうとするのだった。日常のささやかな出来事からも、キラキラとした物をすくいとっていた日々があったことを。
写真の撮影も終わって、話がやはり弾んでしまいお昼になったので、私の作った甘すぎるカレーを出したら喜んで食べてくれた。マキコさんの持って来てくれた栗のお菓子もおやつに食べた。この包み紙を私が捨てようとすると、「この色が好きだから、私この包み紙持って行きます」といって鞄に入れていた。
これをもし読んだらマキコさんは怒るかもしれないけど、彼女には素敵な恋人がいて、12月にその恋人がロンドンに行ってしまうのでした。そのことを思うと「吐き気がするほどさみしい」と彼女はつぶやいた。その気持ちがなんだかつーんと切なくて、かわいらしくて、とても胸がざわざわとする良い秋の日でした。